安曇野  2011.11.8.  臼井吉見

2011.11.8. 安曇野 第1部~第5

著者 臼井吉見 1905年長野県生まれ。編集者、評論家、小説家。松本高校を出て東京帝国大学文科卒。教員生活の後、古田晁、唐木順三、中村光夫らと1941年筑摩書房を創立。戦後『展望』を創刊して編集長として論壇に新風を送る一方、自らも評論、小説に健筆を振るう。主な評論・エッセイは『臼井吉見全集』(5巻、筑摩書房)に収録

発行日           1987.4.23. 第1刷発行      1988.7.15. 第4刷発行
発行所           筑摩書房(ちくま文庫)
カバー装画 安野光雄「安曇野」(文藝春秋)より「碌山美術館」

新宿・中村屋の創立者、相馬愛蔵・黒光夫妻、木下尚江、萩原守衛、井口喜源治ら信州安曇野に結ばれた若い群像を中心に、明治から現代までの激動する社会、文化、思想をダイナミックに描く本格大河小説、5部作

解説 井出孫六
原稿用紙5600枚の大作、明治以降の日本の長編小説の中でも五指に入る
完成まで10年の歳月、第1部は19647月号から『中央公論』に連載、終えたところで作者が病に(白内障に続いて脳血栓、肝臓では瀕死の瀬戸際まで、糖尿)、第2部からは筑摩書房の『展望』に発表の場を移す
作者を動機つけたものは作品のモチーフと深く関わる
書き出し ⇒ 水車小屋のわきの榛(はんのき)林を終日さわがしていた風のほかにも、もの音といえば、鶫(つぐみ)撃ちの猟銃が朝から1度だけ。にわかに暗くなってきた軒さきに、白いものがちらつき出した
作者の生まれ故郷穂高村を舞台に、ウェストンによって命名された「日本アルプス」の名さえ知られていない飛騨の山脈が屏風のように取り巻く明治31年の山国のクリスマスに5人の登場人物がそろう ⇒ 在地の文化組織者井口喜源治を中心に荻原守衛、木下尚江、相馬愛蔵・黒光夫妻
島崎藤村の『夜明け前』を読むときに似た心のおののきに通じるところあり ⇒ 藤村も各章の終わりに読者に向けて作者の後書きのようなものをつけたが、臼井も「作者敬白」という後書きをつけている
執筆のモチーフとなった荻原守衛への関心は、第2次大戦のはるか以前から抱かれていたが、62年にたまたまエジプトのカイロ博物館で木彫の立像《村長像》を見て思いがけない衝撃を受けたことで改めて表に出てきた ⇒ 同じ立像を半世紀以上も前に、長い滞欧を終えて帰国の途にあったロダンの若い弟子守衛が雷のような衝撃を受けて、その後の創作活動の泉ともなったと言われる
作者は、敢えて19世紀的小説手法を配して、18世紀的手法を用いたと語る ⇒ あらゆるものを包み込んでくれる紺の大風呂敷という小説形式
全巻の主人公は、新宿に中村屋を開業して成功する相馬夫妻であり、この2人を軸にして繰り広げられる人間模様が物語を構成

解説 久保田正文
作者は5600枚に拘る
長野県教育問題についての説に関心 ⇒ 『白樺』派文学思想の長野県教育への影響を最も重要に見ているものと思われる ⇒ 戦前戦後を通じ国家権力への協力を合理化して怪しまなかったと批判的に観察
長野県教育の問題を突き詰めていくと国家の問題⇒天皇制の問題へ行きつかざるを得ない
天皇の問題こそ、『安曇野』最大の、そして一貫するテーマ ⇒ 第4部では皇太子の松本中学訪問に振り回されて閉口し、疑問を感じた思い出が綴られ、第5部では臼井自身が天皇問題について縦横無尽に博引傍証して論じている。相馬良がパール博士の「日本無罪論」に関連する原爆問題についての意見に接し、〈犠牲者が加害者を弁護するこの卑屈な事大主義は日本国民の本質かどうかの判断に迷うのであった〉との記述に、作者の天皇問題にまで通じる巨大な問題提起があるように思える


第1部        新しい女黒光と夫愛蔵らの溌剌とした動きを追いつつ、新文化創造の鋭気みなぎる明治30年代を活写する――著者年来の理想と情熱を傾注して成った代表作
1965.6.10. 筑摩書房から刊行
愛蔵と結婚、油絵とオルガンをもって安曇野に嫁にきた星良、取り返しのつかないことをしでかしたように思われてならない。2年前までは、女が結婚して子を産むなどということは男への屈辱以外ではないと思い、文章を綴って閨秀作家として世に出るほかには考えたこともなかったのが、明治313月結婚して、今年5月には長女俊子(新興日本にふさわしい女性の先駆者中島湘煙の本名に倣ってつけた)を出産
愛蔵が穂高村に持ち込んだキリスト教と禁酒運動が、明治24年の穂高禁酒会発足に繋がり、井口喜源治やその弟子荻原守衛が参加
明治5年学制発布と同時に、松本を中心とする筑摩県では、教育に熱意を持つ人が県下を回って小学校の開設を勧めた結果、県内各学区ごとに1校を設け、全国に先駆けて新教育を発足させたが、井口の転任辞令を契機に官制の学校に対抗し一段と高い教育を目指して井口・相馬が中心となって開校した私塾が研成義塾
荻原守衛は自宅農作業に飽き足らず、画の勉強のために上京、明治女学校の中に寄宿したのが災いして画の勉強にならず、アメリカへと旅立つ
田舎暮らしの単調さと、姑との折り合いが悪かったこともあって、家事にも農作業や養蚕業の手伝いもままならないままに、体調を崩し、転地療養を兼ねて東京に出る ⇒ 1年前にも長男出産の前に帝大病院に診察に来たが、東京に来た途端に気分がよくなり、本郷の学生相手にミルクホールか本屋でもと考えた。正式に家を出ると決めたのは1年後、俊子を置いていくことが条件だった。東京での生計を立てるために考えていたミルクホールはすでに先を越され、素人でもできそうなもので、西洋にはあっても日本には珍しいものということで目をつけたのがパン屋。適当な買い物を新聞で募ったところ、運よく飛び込んできたのが帝大正門前の中村屋、繁盛していたのに何らかの理由で売りに出たらしく、従業員ごと居ぬきで700円で買って明治34年末に開業

作者敬白 1965.5.17.
新宿中村屋を舞台にして長編小説を書いてみたいという念願と、戦時中にも土門拳に荻原守衛の遺作を撮ってもらって出版しようとした思いが重なってこの小説となった
3年前にたまたまエジプトのカイロ博物館で木彫の立像《村長像》を見て思いがけない衝撃を受けたのが本書の執筆動機となった ⇒ この像こそ1908年荻原守衛がパリでロダンに学び、帰国の途中に見て感動し、その後の仕事に決定的影響を及ぼしたものだった
1部は、主要登場人物5人を勢揃いさせて、白波5人男のツラネが終わったところ、全体としては4部もしくは5部を予定
多くは実名としたため、気軽に事実を無視・変更することは許されないという制約もあったが、空想がはばたかなくては小説が成り立とうはずもなく、小説家の特権を放棄した覚えはない
2部はこの秋口から連載発表の運びになっている(⇒病魔に襲われ延期)

第2部        荻原守衛の悲劇的生涯に焦点 ⇒ 信州安曇野に結ばれた相馬愛蔵・黒光夫妻、木下尚江、井口喜源治、荻原守衛ほか、平民社、パンの会などの多彩な登場人物によって織りなされる壮大なドラマを、きわめて多面的な角度から展開し、揺れ動く明治40年代の姿を鋭くとらえた力作。苦悶と相克のうちに鮮烈な生涯を閉じた天才彫刻家、碌山荻原守衛の死までを描く
1970.11.30. 筑摩書房より刊行
中村屋が角筈の市電終点に移転。新宿は青梅街道と甲州街道が東京の街中に繋がる入口であり、多摩川沿いに広がる武蔵野の農村へ結ぶ東京の出口、農産物を積んだ荷車がひっきりなしに続き、帰りは肥を運んでいくのが多かった。中央線の汽車は飯田町駅から発着していたので、新宿は貨物駅。畑を囲んで雑木林が続き、あちこちに牛の遊んでいる牧場がはさまれていた
1908.3. 守衛が7年ぶりに帰国、浅草橋で帽子商を営んでいた次兄の支援で新宿甲州街道近くの畑の中に画室落成
1906年秋 守衛はニューヨークで高村光太郎と対面、翌年ロンドンで再開して意気投合 ⇒ お互いにエジプト彫刻に惹かれたのが機縁
1907.12.パリを立って、ローマで2週間、アテネで1週間、カイロで1週間、各地で博物館を見学
木下尚江は、社会主義運動から距離を置いて伊香保に隠遁、地元の主婦に感化されて天理教本山に参拝 ⇒ 天理教は、教祖中山みき(明治20年歿)が庄屋に嫁ぎながら、多勢の犠牲と奉仕の上に特定の少数が幸福を独占する仕組みに疑問を持ち、貧に落ちてこそ幸福になれると信じ、天保941歳のみきに突然天理王のみことが天下ってからは、貧に落ち切れと叫び、自分の持つ一切のものを貧しいもの、苦しむ者、病める者へ与え尽くした。今の教団が信者の犠牲と奉仕の上に栄えているのは、全くあべこべのごまかしと不正
社会主義運動や無政府主義運動が活発化して弾圧が加えられた時代
穂高神社の祭神 ⇒ 穂高見命(ほたかみのみこと)。海神(わたつみ)族の祖神、綿津見(わたつみ)神の御子でその宗族たる安曇族によって祀られた神。穂高見命の後裔である安曇族は、海神族の宗族として北九州に栄え、主に海運を掌ったが、次第に関東にまで広がり、殊に太平洋岸に分布が濃い。海を遠く離れた信濃にまで安曇郡として建郡したのは、出雲族が諏訪郡を建てたのと暗合する
安曇族は、海運を支配しながら、同時に宮中では内膳司(うちのかしわでのつかさ)の長官である奉膳(かみ)を奉仕したのは、安曇野を流れる犀川が上古以来東国における最大の鮭漁の地域で、山河の幸に富んでいたからとの説もある
穂高神社は、安曇野随一の由緒ある社だが、ここは里宮で、奥宮は神河内(かみこうち)の明神池のほとりに鎮座。御神体は穂高岳そのものとの言い伝えもある。神河内(上高地とも書く)とは、神の鎮座する川の流域の意で、神とは穂高見命、川とは梓川。7年毎に行われる遷宮祭は諏訪神社の御柱祭とともに盛大を極める
安曇野と山葵 ⇒ 穂高岳や槍ヶ岳など、飛騨境の高い山々のしずくが地下水になって、この穂高まで来て、再び地上に姿を現す。その水を引いて栽培。日露戦争の頃から、等々力、白金、矢原など、万水(よろずい)川に近い湿地の藪やどぶを切り拓いて、山葵畑を作る者が増え、戦後ますます広がり、安曇野の名産になりつつあった
守衛が帰国したころ、相馬夫妻の間に不倫問題が発生。良が中村屋の業務に没頭している間に、愛蔵は地元で蚕の仕事をしていて、出戻りの親戚筋の女と不倫。それを知った守衛は愛蔵を詰ると同時に、良に自分の思いを告白して自分と一緒にアメリカに行こうと迫る
守衛と良は、愛蔵公認の仲ではあったが、良にはさらに子供ができたこともあって、守衛の告白には優柔不断な態度を示す
悶々とする守衛は、良と二人で訪れた鎌倉材木座の成就寺にあった文覚像を見て、帰国後最初の作品とする
次兄の紹介で、同業帽子問屋の北条虎吉像を制作、食べるために受けた仕事だったが、高村光太郎の評価は断トツで高かった
のたうちまわる女を作った『絶望(デスペア)!』も、守衛の良に対する気持ちの表現
『女』は、立膝に両手を後ろ手に組んで空を見上げる、良の苦悩そのものを表現、良の子供たちが一見して自分の母親がモデルだといった
守衛は、思いを果たせぬまま突然喀血して死去

作者敬白 1970.10.5.
1部を書き終わったところで白内障となり、悲壮な覚悟で相次いで両眼を手術。ようやく安定して視力を回復したところに脳血栓で倒れる。諸悪の根源は糖尿病と分かり、懸命のリハビリ。ようやく1年前に退院し、健康回復のためにも『安曇野』第2部の執筆に没頭

第3部        木下尚江が主人公 ⇒ 新宿中村屋に舞台を移した相馬愛蔵・黒光夫妻の周りに集うエロシェンコやボースらの人間群像を描く、本格大河小説全5部作の第3部。本巻は大正時代を背景に、大杉栄、伊藤野枝、神近市子、田中正造、有島武郎、松井須磨子、幸徳秋水ら、時代を彩る強烈な個性が演じたドラマをいきいきと描いた力作
1972.4.15. 筑摩書房より刊行

中村屋の離れのアトリエに寄宿していた画家の中村彝(つね)が、長女俊子との結婚を黒光に反対され、黒光を魔性の女として、碌山もその魔力に殺されたとなじる
大正4年ラス・ビハリ・ボース(1886ベンガル生~:インド独立運動の同志チャンドラとは血縁関係はないが、チャンドラの事故死の際の葬儀はビハリのそれとして行われ、中村屋の菓子が供えられたという)が日本に亡命、ドイツを頼んでイギリスからの独立を勝ち取ろうとしたが、敵に味方するとして日本からの退去を命じられたため、頭山満に頼り、同じく右翼の内田良平等も助けに立ち上がり、偶然のきっかけで愛蔵が義侠心を出してかくまう ⇒ イギリスから追われたボースの逃亡を助けるため、連絡役として俊子が駆り出されたのがきっかけとなって、ボースと俊子を一緒にさせるという話が頭山から持ち出され、俊子も受けた
インドの詩人タゴール(詩人ヨネ・ノグチこと野口米次郎(イサム・ノグチの父)と友人)も、中村屋に来て話をしていったことがある他、種種雑多の人が内外の区別なく出入りしていた
新思想の実践者をもって自任する大杉栄と神近市子の不倫。大杉は青鞜社の伊藤野枝ともダブル不倫。それを知っていながらありとあらゆる伝手に頼って金策し大杉に貢ぎ続けた市子は遂に刃傷沙汰に及んで自首
大正3年 白樺美術展覧会が諏訪で開催され、武者小路と信州教育会の結びつきができる
信州教育界にシラカバ教員が氾濫、過激に走って仲間内での反目となったが、自由な風潮は変わらず
武者小路が九州に開いた新しい村は破綻
社会主義者の各派各層の大同団結で社会主義同盟が発足、労働運動から育った作家も加わって創立総会が開かれたが、警察による弾圧も厳しく、大正10年の第2回メーデーが労働者を巻き込んだ大衆運動への発展を画策したが、当局により大量の検挙者を出す ⇒ エロシェンコも相馬夫妻の庇護にもかかわらず国外追放
都心の店舗は商売に特化、住民は郊外へと移り、両者の交通の要として新宿が繁栄し始める ⇒ 中村屋も平河町に住居を買い求め、店舗と住居を切り離す
大正11年 朝鮮・中国を夫妻で旅行、この旅の記念として話に聞いた月餅を作って売りに出したところ好評、支那饅頭と共に中村屋の名物になった
大正12年 関東大震災の被害は軽微、すぐに材料をかき集めて震災饅頭を格安で提供
大正14年 俊子が28歳で病死 ⇒ ボースとの逃避行が身体に障ったのは間違いない
大正14年 新宿に2つの百貨店(三越と布袋屋)が進出、周辺の小売業に深刻な打撃、中村屋も売り上げが半減、中でも商品切手(商品券)が全く出なくなった ⇒ 株式会社化する(黒光が1/2、残りを家族と従業員で分け、社長は愛蔵)一方、営業時間の延長、優れた技術者の招聘による製品品質の向上で対抗。かりんとう等黒砂糖を使った菓子類もこの時の黒光の発案であり、喫茶部が出来てボースの提案でインド式カリー・ライスを始める。さらに能率の均等(繁閑の平準化)と経費の削減(配達費の有料化等)を実行 ⇒ 愛蔵の信念として商売には奇手は禁物、すべて常道、合理、堅実の一点張り、商売は儲けるものという考え方では大した成功は望めない、商売は儲からないもの、適当な報酬で満足すべきものというのがあり、新宿の発展に乗じた愛蔵苦心の経営により、売り上げは急増、恐慌知らず。従業員69人、うち外国人11人、1日の売上が1,500円に迫る勢い
愛蔵には次々と女の問題があって、黒光との間にも風波が絶えなかったが、揉め事のある毎に、中村屋の法律的実験は良の手に移っていった

作者敬白
大正時代を背景とするが、20人余りの関係者が様々な死に方をしている
それぞれ強烈な個性の演じた人生の深淵をちらっとなり覗きこんでもらえただろうか

第4部        木下尚江が主人公 ⇒ 昭和に入り、慢性不況の一方で戦時体制に移行する時代相を描くなかで、相馬夫妻と親交を結んできた木下尚江夫妻、井口喜源治が逝く。インド独立運動に奔走し、日本の敗戦を予期しつつ世を去る中村屋の婿ビハリ・ボースとその後継者チャンドラ・ボースの死。そして開店以来48年にわたる歴史の幕を閉じる中村屋の解散式。昭和初期から敗戦に至る激動の日本を描いた、本格大河小説5部作の第4
1973.6.20. 筑摩書房より刊行

「商売繁盛と女主人」(愛蔵の寄稿) ⇒ 銀座木村屋、本郷岡野、本所壽徳庵、三井家の初代の礎も、味の素も、明電舎も
長男・安雄は親戚筋の和子と結婚したが、和子は良の気儘な態度に精神的に参る
ブラジルに移住した文雄がマラリアで死亡
虎雄が、共産主義に傾倒、店の金を持ち出す ⇒ 警察沙汰にして勘当
千香子は、安雄の学友で京都帝大卒東京市電気局勤務の四方と結婚
安雄が犬に凝りだして、ドイツ留学中にシェパードにのめり込み、日本生まれで訓練された最初のシェパードを飼うと、陸軍から軍用犬として献納して欲しいといわれ、欧米に比べて軍用犬が圧倒的に少ない日本で、シェパード犬協会を作って殖やそうという運動にまで手を出す ⇒ 周囲は反対したが、そのうち安雄が犬友達で上流階級とも対等に付き合っているのを見て、意外なことに良が理解を示しだす
五反田・袖が崎に、島津から土地を購入して本宅を建て引越し、平河町は長男安雄一家が住む
中村屋の社員総勢177名。全員が男性(新宿進出当時からの中村屋の店是)。良が持病もあり身体の調子が万全でないところから、千香子が女癖が改まったとは思えない愛蔵の監視役も含め、女主人として睨みを利かしていたが、社員に対しても厳しく当たっていた
武蔵野館がオール・トーキーの封切館として東京の映画ファンのメッカとなる
1937年 中村屋研成学院開設 ⇒ 青少年店員の教育のために設立
学院長 谷山恵林(大正大学教授、文学博士)
名誉学院長 矢吹慶輝(18791939 大正-昭和時代前期宗教学者,社会事業家。宗教大(現大正大)教授となり、欧米留学敦煌出土仏典研究、大正14年「三階教之研究」で学士院恩賜賞。勤労児童のための三輪(みのわ)学院創設し、東京市社会局長をつとめた。福島県出身。東京帝大卒。旧姓佐藤。号は隈渓)
開院式には頭山満が来て万歳三唱の音頭を取る。来賓代表の早大総長田中穂積はヒトラーに学べと訓示

1937.11. 木下が肝臓癌で死去 ⇒ 良は、木下が女にだらしなかったことに拘り、臆病で卑怯、本当は気の弱い小心者と非難
中村屋は、支那事変勃発で売れ行き急増、原材料や人手不足が深刻に。人心が荒んで、万引きや無銭飲食が頻発
1939年 年来の盟友、井口喜源治逝去
1940年 同族会社となると余計に税金を払わされるため、株式開放を実行 ⇒ 知り合いに持ってもらう
鎌倉稲村ケ崎に別荘・黒光庵を建て、良は療養を兼ね読経の毎日を送る
この年の8月、良が慢性の尿毒症で一時危篤に、末期の水まで取ったが、奇跡的に回復
1941.4.1. 全国6大都市で米の通帳制開始(大人11日の消費量23)
小学校が国民学校と名称変更
1942.1. マレーのジョホールバル陥落と前後して、インドの独立運動の組織化が進み、イギリスから独立して大東亜共栄圏建設に参加すべきとして日本のボースを柱にインド独立連盟が組織され、日本軍部も積極的に支援 ⇒ シンガポール攻略の際は、日本特務機関下にあったインド兵による義勇軍による呼び掛けに応えて5万のイギリス・インド軍のインド人将兵が投降したという

1945.1. ボース病死
1945.3.13.夜半から翌14日未明にかけての東京大空襲で西大久保の家が全焼、相馬夫妻はその前から五日市線増戸の大悲願寺に疎開していたが、良は青春の思い出の雑誌・本・日記や記録、わけても多くの美術家や文学者たちの無名時代の遺作や書簡の数々を灰にしてしまったことが悔しく、留守居役の不甲斐なさをこぼしたが、逆に娘にそれほど大事なものならどうして自分で持ち出しておかなかったのかと詰問され、これまでいつでも過大な要求を持つところから相手や周りのものを傷つけてきたことに思い至る。俊子に死なれ、文雄を死なせ、虎雄に背かれ、ボースに逝かれ、師と頼む人に次々先立たれ、今また家を焼かれ、青春の形見を失った良が初めて覚えた痛みだったのかもしれない
中村屋は焼け残ったが、原材料の配給を受ける見込みが立たず、5月から休業
25日の空襲ですべて焼け出され、6月に会社解散
818日 チャンドラ・ボースは日本軍にソ連行きの飛行機の提供を要請するも、台北飛行場を離陸した直後に墜落、遺骨は東京に運ばれ葬儀を終え杉並の蓮光寺に安置

作者敬白 1973.5.10.
昭和の初めから敗戦いたるまでを背景とする
人生一寸先は闇。この半年足らずでも狭い文士仲間だけでも、浅見淵、椎名麟三、阿部知二、大佛次郎らがあっという間に亡くなっている
この第4篇でも主要人物の多くが亡くなり、その死に様をしつこく見届けることになった
5篇では、それに代わる新しい人物が次々と出演、再演、相馬夫妻も健在。引き続き愛読を願いたい


第1部        木下に代わって老アナーキスト石川三四郎が主人公 ⇒ 5600枚に及ぶ近代日本100年にわたるドラマの完結編。戦後、新たに出直した新宿中村屋は、苦難のうちにも発展し、次代へと受け継がれていく。敗戦の混乱と無秩序の激動期に、石川三四郎、柳田国男、中野重治ら知識人は何を考え何を願っていたのかを中心に、戦後の日本と日本人の動きをとらえ、さらに作者が自ら1登場人物となり軍隊の姿を描き出し、天皇制・戦争責任の問題などに触れながら、現在の「うつろな繁栄」の正体に迫ろうとする大作
1974.5.30. 筑摩書房より刊行

石川三四郎 ⇒ 45.3.養女の生家のある甲斐上野に疎開。報道班員としての任が解けて南方から最後の飛行機で帰国した大宅壮一が訪問。大宅はこれからの食糧難を見越して世田谷・八幡山に600坪の荒れ地に建つ洋館を4万円に強引に叩いて、持ち帰ったライカと生フィルムを6万円で売って買い取り、開墾に専念
アナーキストの主張 ⇒ 平和をもたらすには無政府主義。徹底した自由な連合組織を樹て、労働者に少なくとも資本家と同じ責任と名誉を負わして、百姓と土地と労働者とを直結させる。労働組合と農民組合だけで間に合うし、中央事務所としては1つの統計局で十分
新憲法制定にあたって占領軍から要求された5項目 ⇒ 秘密警察の撤廃、婦人参政権、労働組合の結成、自由主義教育の育成、産業の民主化 ⇒ 幣原首相は、それほどの改革なら憲法改正するまでもないと答え、マッカーサーや側近は通訳の誤りではないかと、腑に落ちない顔をした
中村屋の跡地(もともと借地)を含め、新宿駅東口から三越にかけては暴力団尾津組が占拠して闇屋に賃貸ししていた ⇒ 警察に訴えても出身者が暴力団に天下ったりして文句を受け付けない
愛蔵夫妻は、46.6.疎開先から元中村屋牧場のあった三鷹に転居
インドでは、両ボースが国事犯として裁判にかけられるに及んで、同胞の蹶起を促すこととなり、大衆運動が暴徒化、鎮圧に出動させられた軍隊は発報を拒否、争乱が反乱となって拡大、同時にイギリス本国では直前の総選挙でインドに自治権を与えると言っていた労働党が勝利し、インドが早期に新憲法制定会議を開くことを承認

民芸の柳宗悦とシラカバ教員の交流 ⇒ 大正5年朝鮮を訪問、高麗の陶磁器に心酔、日本が朝鮮を属国としていることに憤慨、「朝鮮の不名誉というより日本の恥辱」とまで言った。朝鮮工芸にも傾倒して朝鮮民族美術館の建設を働き掛ける。甲州では木喰(もくじき)上人の探求に熱中、上人作の仏像の発掘に奔走、濱田庄司や河合寛次郎との交友も始まり、民芸美への探求に拍車がかかり日本民芸美術館設立の趣意書が配られ、大原孫三郎の寄附を得て36年には駒場に民芸館が落成

東京国際裁判 ⇒ 46.5.3. 被告26名の最初の法廷での姿を描写。東条の操り人形といわれた木村兵太郎はビルマ方面軍司令官として敗戦を迎え、特別機で当日朝厚木に着いたが、消毒等の手続きを経て法廷に駆けつけたが、開廷時刻には間に合わなかった
大川周明の言動がおかしく、法廷で東条の頭を叩いたが脳梅毒と判明 
5.18.広田夫人服毒自殺、6.27.松岡洋右病死(肺結核)
陸軍省兵務局長を最後(元関東軍特務機関長)に退役となった田中隆吉少将が検事側証人として、実名を挙げて事実を暴露
8.16.満州国皇帝溥儀もソ連に保護されて証人台に立ち、手のひらを返したような被害者面をして被告たちを唖然とさせた
10月 ソ連代表検事が参謀本部富永次長の、対ソ攻撃を天皇が裁可したという供述書を証拠として提出、天皇告発を匂わせる ⇒ マッカーサーの意を受けたキーナンが、最高司令官の意向として天皇を訴追しないとの決定を各国に伝える
47.1.5. 永野修身が急性肺炎で急死 ⇒ 真珠湾の責任をすべて認めており、検事団にとっては頭の下がる思いだったが、弁護団にとっては始末に負えない人
広田は1票差で死刑、荒木、木戸、大島、嶋田は1票差で終身刑 ⇒ ソ連は死刑にはすべて反対、自国に死刑罪がないため
判決を知って、シラカバ教員だった佐久岩村田の小学校長がマッカーサーに直訴状を出す ⇒ 禁固刑への減刑を嘆願したがなしのつぶて
もともと教員の組合活動が活発だった長野では、初の教育委員公選にあたって軍政部が干渉、県教組を弾圧。信州の教育界を仕切ってきた信濃教育会が、占領軍の若い将校の意向に同調。そこに49.5.からはレッドパージが来て大量検挙に繋がる
戦争で被った厖大な犠牲をあがなって獲得した戦果がありとすれば、それは日本国憲法であり、わけても第9条はまさしく戦果そのものであり、日本のためばかりではなく、世界のため、人類のために守らなくてはならない。エメリー・リープスが第1次世界大戦で母親を虐殺された悲しみから、戦争とは何かを追求して、『平和の解剖』を著わしたのは日本敗戦の年。開巻冒頭に、自国を世界の中心と決めてかかるほど、世の中の真の姿を変えてしまうものはない。自国中心の考え方が、コペルニクス以前の地球中心の考え方であり、これを正して、人類中心の考え方に変えなければ戦争は止まない。自国中心の国家主義をコペルニクス的に転換しなければならない旨を強く訴え、これに呼応して日本では、笠信太郎、谷川徹三、湯川秀樹らの世界連邦の悲願となる
ボースの息子正秀が沖縄戦で死んだことがほぼ分かったのは、51年になって漸く北海道に住むという元部下の伝令からの便りによってだった

48年 多摩川食品(安雄が戦時中興した航空食品の会社)と旧中村屋が合併、再興中村屋が出発。50年には調布に黒光庵を新築して転居 ⇒ 体力を回復した黒光の関心は、回想録を綴ることと老人ホームの設立(杉並の浴風園内に委託建設が決まり、殆どの私財を投入)、一方の愛蔵は脳軟化症の徴候
旧中村屋の焼跡を占拠した尾津組は動かず、警視総監の町村金吾は中村屋の古い顧客であり、四方謙治(二女千香子の主人)の二高時代のクラスメートだったので何とかしてくれると期待したが、町村が辞めて頓挫。愛蔵は長い歩みをともに苦労してきた高野果物店(もとは駅前の甲州街道口にあって、桑苗や繭の売買までやっていた)や紀伊国屋(駅付近に数件かまえた薪炭商)が悉く戦火に焼かれ、尾津組の侵入に面して、本来の商人道が頭を挙げ、敗戦翌年には共同で尾津組を訴える
山形の疎開工場が県の配慮もあって始めた滋乳生産が当たって、新宿の富士銀行との取引が出来たことが契機となって、金繰りが好転、尾津組とも彼等の所得税滞納を肩代わりすることで妥協が成立、新宿の土地も第3国人に盗られる寸前で確保。48.5.には漸く焼けたビルの改修工事が完了して1階の販売所と喫茶室を開店
朝鮮動乱景気で業績急伸、伝統の一業一店主義を発展的に解消、伊勢丹へ出店
54年愛蔵死去(老衰) ⇒ 死の直前、黒光の初恋の相手の妹が見舞いに来た時、病床から妹に黒光と兄との関係を質問したのを聞いて、黒光は初めて愛蔵が自分を認めていたことを知る
その年、碌山の伝記制作の話が進み、黒光はインタビューに答えて、碌山の悩みの源が自0分であることを述懐
黒光は、平林たい子や坂西志保らとともに朝日新聞で54年下半期の「きのう・きょう」の執筆陣に指名 ⇒ 編集局に安雄の学友がいた関係もある
「本当の世界平和は、人種の無差別から始まる(黒光)
「奥津城」  お墓のこと
55.3. 黒光も愛蔵の1周忌を済ませたところで急激に体力が衰え、来るものが来たと言って後を追うように急逝
56年 安雄も、戦後の復興に奔走した無理が祟って病死。中村屋はその息子雄二が継いだが、暴走して巨額の借財を造り追放され、実権は四方が握っていた

そのあとは、臼井自身の応召体験 ⇒ 松本女子師範に奉職しながら仲間の出版業(筑摩書房)を手伝っていたが、43.10.赤紙が来て陸軍少尉(在郷将校、応召少尉)として松本連隊に入隊、外地派遣の後を埋める補充隊勤務となった後、九十九里に派遣され、本土決戦への準備をしているうちに終戦
「概ネ」、「要スレバ」  軍隊の文書用語。口頭の場合は上級者が下級者に使用する習わし。「要スレバ」は省庁によって意味が違い、「要するに」の場合と「必要であれば」の場合があ
敗戦の虚脱感を言うものが多かったが、著者にとっては解放感だけで、これまでにない喜びを感じた。それもただ命が助かっただけでなく、敗戦によって日本そのものが生き返り、自分たちもまた生き返ることが出来る喜び。長いこと日本人の精神を拘束し、歪めてきた元凶が倒れたことが喜びの根源。それだけ軍隊との繋がりが精神の重荷だった
復員早々、友人の出版社に引き戻され、創刊する雑誌『展望』の編集を任される ⇒ さいしょのしごとが45.10.の日本民俗学の先達である柳田国男訪問、その改良論者・改革論者としての話に耳をかた向け、新たな出発への指針とする
『展望』に戦後の第一声を載せたかったのは、柳田のほか中野重治と宮本百合子
柳田国男は『喜談日録』
中野重治の『冬に入る』 ⇒ 日本国民に与えられた自由は、決して思いがけない贈り物ではなく、日本国民が喘ぎ渇いて待ったもの。長い間の苦痛と飢えを通して辿り着いたこの糸口を大事に考えなければならない
宮本百合子の原稿は、戦争中に書いた網走に終身刑で服役していた夫・顕治へのいかにも女らしい甘い手紙で、期待を裏切ったが、後に『道標』が4年越し連載される
高村光太郎は『雪深く積めり』と題する詩1篇を寄稿、書生の作ったような雑誌との評

残酷なばかりに不幸で暗い天皇の道は、戦後も本質的には少しの変りもない ⇒ 東京オリンピックの開会宣言にしても、国際的な場にヒトラーやムッソリーニと手を握って三国同盟の判こを押した天皇を引っ張り出すのか、政府や宮廷役人の相も変らぬ無神経に腹が立つ、天皇も天皇だ、天皇を世界の前に晒しものにすることに我慢がならない。1971年の天皇夫妻の訪欧にしても、同じことの遥かに大掛かりな繰り返しに他ならない。夫妻がオランダで蒙った反応にしても一部特殊分子のそれなんかではあるまい、道義心の麻痺した無恥鈍感な政府関係者に問題がある
大日本帝国憲法で規定した天皇制とは、責任を負わない、神聖で不可侵な存在を最有効に利用した支配体制であり、終戦の聖断が下った瞬間、天皇制は崩れ去ったし、二・二六の時でも天皇の断固たる決断があった

高村光太郎に『雪白く積めり』に続いて本格的な詩を依頼 ⇒ 47.6.『暗愚小伝』が届いたが、精力的な戦争詩人に移行した根源を、幼年時代からの自己形成の中につきとめようとした苦心の大作ではあるものの、そこには詩の言葉とリズムは消え果て平板な説明語だけが白々と並んでいて失望。自分なりに戦争へのけじめをつけているようだが、あまりに優等生的で、厖大量の戦争詩の製造人に変身した成り行きは謎のまま残る
齋藤茂吉にしても、数千種に及ぶ戦争詠が、しかも征途につく部隊を激励叱咤する部隊長訓示の如き、いやそれ以上に野蛮で野卑な言辞を弄したばかりか、空襲で一夜にして何万の家が焼かれ、何十万の命が失われようと、天皇のいます都は光隈なし、などとうそぶく人を到底詩人などとは思えない
天皇を振りかざしての戦争への熱狂は、高村も齋藤も変わらないが、茂吉の場合、戦前から戦後にかけて外界はめまぐるしく変転しても、同一の鋳型にすがり続けて、何の不安も何の疑念もない所に無類の特色がある
戦陣訓など軍隊の中で生きていたとは思わない。「生きて虜囚の辱めを受けず」と言うのもおよそすべての日本人の意識下に潜んでいた国民常識ではあっても、軍隊だけのものではない。戦陣訓の効果ではなく、むしろ社会一般に生きていた思想と思えるところに問題の深さがある。軍隊生活に堪えかねて自殺した補充兵のお弔いに行ったところ、村を挙げて部隊へのお詫びを考えていたということを聞いて、軍隊より村の方が怖いことに愕然とした。兵営と社会の垣がない、つまり国中が軍隊だということ
ジャングルから発見された日本兵についても、ただ軍事裁判が怖かったり命が惜しかったりして潜んでいたにもかかわらず、マスコミがでっち上げた嘘(戦陣訓のこと)に悪乗りして、「天皇陛下にお目にかかりたい」などと一伍長では夢にも考えるはずのないセリフまで口走った
バーガミニ(聖路加病院の建築家の息子、9歳まで東京で育つ)の著作『天皇の陰謀Japan’s Imperial Conspiracy』 ⇒ 日本での幸せな少年時代に続き、フィリピンでの日本軍の強制収容所体験があり、日本人の不可解な二重性格の謎を解き明かそうとして戦後京都に住んで取材した結果の大著で、天皇告発の書。 ⇒ 天皇が21年の訪欧時、欧州駐在武官で後に南進派として軍の中枢を握った永田鉄山、岡村寧次、小畑敏四郎とバーデンバーデンで会い歴史的な盟約を結ぶ。彼等が天皇の軍事ブレーンとなり、天皇が南進派の頭目として終始積極的に行動するいきさつが一貫して糺明されているのが本書の特色。天皇が真珠湾奇襲の可否も含め開戦後の作戦計画まで想定した軍部も関与していない話を周囲としていたことも暴露、その中で南京占領は当然の作戦で、断固反対した多田駿(当時中将で参謀本部次長)に対し、天皇側近が天皇の意志を体して多田の説得にあたり、退役と不名誉に直面、栄達の未来の約束を突きつけられて多田は観念して同意、その4日後に命令が発せられた(脅迫の下に行動したという事実を記録しておく日本人独特のやり方)
天皇が、アメリカは別としても、日本国民に対して戦争責任を免れる道理はありえない
天皇自身が、天皇と天皇制を混同している
アメリカ訪問にしても、命と皇位を保護してもらったお礼参りの意味ならあくまで個人として行動してほしい。そうでなければ日本という自分が生まれ育った国に絶望に近いものを感じない訳にいかない
これまで著者が接してきた人の中で一番心惹かれ、関心のあるのは誰か ⇒ 正宗白鳥と志賀直哉、若手では椎名麟三、深沢七郎
正宗白鳥 ⇒ 最も活発に仕事をしたのは長編『人間嫌い』の連載の始まった49年前後。軽井沢で人と接しない生活を送る。律儀な現世家。内村鑑三を尊敬。キリスト教の洗礼を受けるが棄教、後年それを否定、生涯を通じて信仰と懐疑の間を往復。自分の消極的善行は子供を産まなかったこと、子供にまでこの世の苦しみを嘗めさせるに忍びないと書いていた
志賀直哉 ⇒ 中学時代から尊敬。三島由紀夫の学生時代の作品を読まされていやーなものを感じたと書いていたが、自分も『展望』創刊の頃持ち込まれた無名時代の短編数編を読んで、雑誌に載せようとして仲間の反対にあって断念したが、後におかしいほど高名になってからも悔しいと思ったことはさらさらなかったので、志賀のいたって正常な勘に特別の親近感を寄せた。「人間幾ら偉くなっても地球上に生じた動物の1つだというのは間違いないことで、ここまでの進化には感心するが、時に自らを省みて明らかに自身が動物出身であることをまざまざ感じさせられる場合もあるのだ」と言う言葉なぞ妙に忘れられない
椎名麟三(191173) ⇒ 廃墟から来た人そのもの。虚ろな繁栄の中で死んでいった。『美しい女』の作者としてプロレタリア文学が深い所で人間性に触れていないことに不満だった
深沢七郎 ⇒ 日本文学者の中では何と言っても「にしゆき」さんだと言っている。西行法師のことだが、小さい頃そう覚えてからずっとそれで通している
碌山美術館の設立話で大団円

作者敬白 1974.4.3.
本巻第5部の時代背景は、敗戦直後から昨秋7310月にわたる
敗戦翌年「展望」誌上で、「短歌訣別論」なるひどく気負った放言の責任をどうやら果たした思いが強い ⇒ 短歌の表現によれば、敗戦も開戦も、驚きも、畏れも、躊躇いもなく、「み声」に感泣する他の感情を覚えなかったかのように、2つの日がほとんど区別がつかない表現しかなかったことを知って愕然としたのが契機となっての発言だったが、
         おほみことのりに涙し流る
畏みききて涙ぬぐはず
         玉のみ声を聞きまつるかも
畏さきはまりただ涙のむ
うつつの声の大みことのり
み声の前に涙し流る
うつつのみ声ききたてまつる
感極まりて泣くべく思ほゆ
皆歌壇の大御所と言われる人の作。俳人についてはこんなことはなかった
常に和歌形式を掲げて現実に立ち向かうことは、客観的なもの、合理的なもの、批判的なものの芽生えの根は常に枯渇を免れない。和歌形式の働くところ、そこは「一億総懺悔」が素直に入り込む場所であり、どんな回想にも泣き濡れる場所、宣戦の「感激」も、降服の「感泣」も同一同質でありうる場所、何ともかんとも哀れでならぬ場所なのである ⇒ 短歌への去りがたい愛着を決然として断ち切るのは、民族の知性変革の問題だ
全てを和歌形式の罪とするのは性急すぎたが、一般に歌詠みどもの、歌の読みっぷりには目を掩(おお)わしめるものがあったからの発言
そんなわけで、「安曇野」は、歌人どもを逆上させ、世間を騒がせた責任に応えるものとなった
この小説は、かのおごそかなる芸術の仲間に入れてほしくない。自分にとっての小説形式は、何を投げ込もうと、包み込んでくれる紺の大風呂敷という考えだった

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臼井 吉見(うすい よしみ、19056171987712)は、日本の編集者評論家小説家日本藝術院会員。息子は映像作家の臼井高瀬。
長野県南安曇郡三田村(現・安曇野市)に、父貞吉・母きちの次男として生まれる。 旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)、旧制松本高校を経て、東京帝国大学文学部卒業。 松本中学では後に筑摩書房の創業者となる古田晁、俳優・演劇評論家の松本克平(千田是也の後の俳優座代表)が同級であった。
教員を務めた後、1946創刊の総合雑誌『展望』(筑摩書房)の編集長を務め、文芸評論家としても活躍。『日本文学全集』『現代教養全集』などを編集した。56年『近代文学論争』で芸術選奨文部大臣賞受賞。1964から代表作となる大河小説「安曇野」の執筆を始め、1974に完結し、谷崎潤一郎賞を受賞した。75年日本藝術院会員。
1977、『展望』5月号に掲載した『事故のてんまつ』(まもなく単行本化)は、川端康成の孤独な生い立ちから自殺までの背景を描いた作品で、川端家から強く抗議を受け、販売差止め仮処分の民事訴訟が提起された[1]。これに対して、臼井・筑摩書房側は死者に対する名誉毀損による民法上の不法行為は成立しないと主張した[2]
NHKのクイズ番組『それは私です』に、解答者として出演していたこともある。
道の駅アルプス安曇野ほりがねの里に臼井吉見文学館の展示がある。

著書 [編集]

§  近代文学論争 (筑摩書房、1956年)のち<筑摩叢書>上
§  人間と文学 筑摩書房 1957
§  あたりまえのこと 新潮社 1957
§  どんぐりのへた 随想集(筑摩書房、1957年)
§  15年目のエンマ帖(中央公論社、1961年)
§  小説の味わい方 新潮社、1962 のち新潮文庫 
§  むくどり通信 東南アジア・中近東の旅 筑摩書房 1962
§  人と企業 成長会社の異色経営者論 中央公論社 1963
§  大正文学史 筑摩叢書 1963
§  安曇野 全5巻(筑摩書房、1965-74年) ちくま文庫5巻 1987 
§  臼井吉見評論集 ~ 戦後 全12巻(筑摩書房、196566年)
§  蛙のうた ~ ある編集者の回想(筑摩書房、1965年)
§  人間の確かめ 文藝春秋 1968
§  一つの季節(小説)筑摩書房 1975
§  田螺のつぶやき(文藝春秋、1975年)
§  教育の心(毎日新聞社、1976年)
§  日本語の周辺 毎日新聞社 1976、旺文社文庫 1982 
§  肖像八つ(筑摩書房、1976年)
§  残雪抄 筑摩書房 1976
§  ものいわぬ壷の話(筑摩書房、1976年)
§  展望 或る編集者の戦後(創世記 1977年)
§  作家論控え帳(筑摩書房、1977年)
§  事故のてんまつ(筑摩書房、1977年)
§  ほたるぶくろ 筑摩書房、1977
§  文芸雑談(筑摩書房、1978年)
§  炉ばた談義 筑摩書房 1978
§  自分をつくる 筑摩書房 <ちくまぶっくす> 1979、ちくま文庫 1986 
§  獅子座(筑摩書房、1979-81年)
§  草刈鎌(筑摩書房、1980年)
§  臼井吉見集 全5巻 筑摩書房、1985

脚注 [編集]

1.   ^ 『中日新聞』197764
2.   ^ 『事故のてんまつ』は、お手伝いさんの女性がやめたことが川端康成の自殺のひきがねになったのであり、川端には異常な恋愛性向があったという内容である。また、お手伝いさんが旧・被差別階級出身であり、また、川端の夫人の家系も同様であるかのような憶測を含む記述が問題になった。夫人については、進藤純孝が自身の「伝記川端康成」の中で、夫人の父が卵屋だったと誤って記述したものを、臼井が脚色したものだが、これらのことに対して部落解放同盟から糾弾を受けた。結局、朝日新聞からこの小説自体がお手伝いさんの人権を侵害しているとの批判を受けたことをきっかけとして、臼井が謝罪し和解が成立、単行本は絶版となった。この経緯は『証言・事故のてんまつ』(講談社)に詳しい。
後年城山三郎の『落日燃ゆ』をめぐる裁判で、死者の名誉は一般に保護されると考えられるが侵害の不法行為に対する請求権の行使者についての実定法上の規定が存在しないという判例が出た。同裁判では遺族の敬愛思慕の情への保護を死者自身の名誉に対する保護とは切り離した上で、これについては年月の経過とともに歴史的事実探求や表現の自由への配慮が優先するとし、本人の死去から44年が経過していた当該案件では意図的な虚偽でない限り敬愛思慕の念を受忍しがたい程度に害するとはいえないと判断した。『事故のてんまつ』では死者に対する名誉毀損についてどのような判断を下そうとしたのか、また、遺族の敬愛思慕の情の保護をどのような基準で判断するつもりだったかは、和解が成立していたので定かではない。


相馬 愛蔵(そうま・あいぞう、明治310151870118 - 昭和29年(1954214)は、長野県出身の社会事業家、東京新宿中村屋の創業者である。
来歴 [編集]
相馬愛蔵は明治3年(1870年)、長野県安曇郡白金村(現安曇野市)の農家に生まれた。松本中学(旧制)3年で退学し、東京専門学校早稲田大学の前身)に入学した。在京中に市ケ谷牛込教会に通いはじめ、キリスト教に入信し、洗礼を受けた。内村鑑三らの教えを受け、田口卯吉歴史家実業家)と面識を得た。
明治23年(1890年)、東京専門学校卒業と同時に北海道に渡り、札幌農学校養蚕学を修めて帰郷した。そのまま北海道に戻る積りが、子供のいなかった長兄に実質養子といわれそのまま郷里に留まるも、北海道に託した夢を郷里穂高の実情に合わせて実現しようとする。明治24年(1891年)、蚕種製造を始め、『蚕種製造論』を著し全国の養蚕家に注目された。
明治24年(1892年)、愛蔵は東穂高禁酒会をつくり、村の青年たちにキリスト教と禁酒を勧めた。明治27年(1894年)、村に芸妓を置く計画に反対し豊科署に請願書を提出、廃娼運動も行った。
当時、志を同じくする友人に井口喜源治がいた。井口は県尋常中学松本支校(現・長野県松本深志高等学校)時代、英語教師のエルマー宣教師に出会い、キリスト教の感化を受けていた。愛蔵はこの井口を助けて、私塾「研成義塾」の立ち上げに協力した。
孤児院基金募集のため仙台へ出掛け、仙台藩士の娘・星良(相馬黒光、1876 - 1955)と知りあい、明治31年(1898年)に結婚。彼女は養蚕や農業に携わったが健康を害し、療養のため上京、以後東京に住み続けた。
明治34年(1901年)東大赤門前のパン屋本郷中村屋を買い取り、明治37年(1904年)にクリームパンを日本で初めて発売した。明治40年(1907年)に新宿に移転し、明治42年(1909年)に現在の本店ビルの場所に店を構えた。
愛蔵は高給で外国人技師を雇い、次々に新製品を発売した。中華饅頭、月餅、ロシヤチョコレート、朝鮮松の実入りカステラ、インド式カリーなどであり、このような異国風の商品で近所に進出したデパートに対抗した。 また食堂や喫茶室などを開設して店を拡大し、現在の中村屋隆盛の礎を築いた。さらに店員のマナーやモラル向上のために研成学院を設立した。愛蔵の商業道徳は、無意味なお世辞を排し良い商品を廉価で販売することであった。
愛蔵は店の裏にアトリエをつくり、荻原碌山中村彝中原悌二郎戸張狐雁らの芸術家たちに使わせていたが、大正4年(1915年)、右翼の重鎮・頭山満の依頼により、ここにインドの亡命志士ラス・ビハリ・ボースをかくまった。大正7年(1918年)、長女俊子がボースと結婚した。こうした縁により、中村屋は日本で初めてインド式カレーライスを発売することになった。
黒光夫人も荻原碌山のパトロンであり、ロシアの盲詩人ヴァスィリー・エロシェンコの面倒をみ、木下尚江と交友するなど、美貌と才気で知られた。夫人は中村屋という文芸サロンの女主人公であった。
愛蔵は、昭和29年(1954年)85歳で永眠。黒光夫人も翌年80歳でそのあとを追った。
人物 [編集]
  • 関東大震災で難民となった人々が新宿へと逃れてきたとき、便乗して高額な商品を売りつけるような真似をせず、安価なパンなどを連日販売して人々の飢えを満たした。『奉仕パン』『地震饅頭』などと大書して販売していた写真が現存している。
  • 昭和金融恐慌取り付け騒ぎが発生し、取引先の安田銀行に預金を確保しようとする人の列が出来た。その際、部下に金庫の有り金を全て持たせてかけつけさせ、「中村屋ですがお預け!」と大声を出させることによって群衆のパニックを収めた。
著書 [編集]
  • 『蚕種製造論』
  • 『秋蚕飼育法』
  • 『一商人として』 - 商人のあるべき姿と商売の要諦を教示
  • 『私の商賣』 - 商人としての面白さ、喜びを記した本
  • 『商店經營三十年』 - 新宿への百貨店進出に対する策をまとめた本

相馬 黒光(そうま こっこう、1876912 - 195532)は夫の相馬愛蔵とともに新宿中村屋を起こした実業家、社会事業家である。旧姓は星、本名は良(りょう)。
仙台藩士・星喜四郎、巳之治の三女として仙台に生まれ、貧しい家庭に育つ。少女期より押川方義の教会へ通い、キリスト教信仰を持ち、12歳で洗礼を受けた。母みのじは星雄記の三女で、五女が佐々城豊寿(とよし)である。
1891宮城女学校(現・宮城学院中学校・高等学校)に入学したがストライキ事件により退学し、横浜のフェリス英和女学校(現・フェリス女学院中学校・高等学校)に入った。しかしフェリスも退学し、1895に憧れの明治女学校に転校、1897に同校を卒業した。明治女学校在学中に島崎藤村の授業を受け(藤村の妻は黒光の後輩)、また従妹の佐々城信子を通じて国木田独歩(結婚して一子をもうけている)とも交わり、文学への視野を広げた。「黒光」の号は、初めて自作が雑誌に載せられた時に恩師が勝手につけたペンネームで「溢れる才気を少し黒で隠しなさい」という意味でつけられたものと言われている。
卒業後まもない1898長野県でキリスト者の養蚕事業家として活躍していた相馬愛蔵と結婚(恩師の紹介、貧乏生活から抜け出すのが目的)し、愛蔵の郷里安曇野に住んだ。しかし、黒光は養蚕や農業に従ったが健康を害し、また村の気風に合わなかったこともあり、療養のため3年後には上京し、そのまま東京に住み着くことになった。もともと田舎暮らしに絶望して体調を崩した妻のために愛蔵が田舎暮らしに区切りをつけて東京での生活を模索したもの
1901東京本郷に小さなパン屋中村屋を開業、1904にはクリームパンを発明した。1907には新宿へ移転、1909には現在地に開店した。
夫とともに、中華饅頭、月餅、インド式カリー等新製品の考案(チャンドラ・ボースから教えられた)、喫茶部の新設など本業に勤しむ一方で、絵画、文学等のサロンをつくり、荻原碌山中村彝高村光太郎戸張弧雁木下尚江松井須磨子会津八一らに交流の場を提供し、「中村屋サロン」と呼ばれた。
黒光は、愛蔵の安曇野の友人である荻原碌山の支援者となり、碌山の作品『女』像は黒光をモデルとしたものだと言われている。また、亡命したインド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースらをかくまい、保護し、1918には、長女俊子がボースと結婚した。そのほか、ロシアの亡命詩人ワシーリー・エロシェンコを自宅に住まわせ面倒をみ、ロシア語を学んだりした。夫が死去した翌年の195580歳で死去した。
子供の友人に朝日新聞社で編集局長・専務を務めた信夫韓一郎がいた。青春時代の若かりし頃、実父と折り合いが悪く家出同然の生活を送っていた信夫にとって、黒光はよき理解者であり話相手であった。信夫は超が付く程の冠婚葬祭嫌いとして知られる人物であったが、黒光の病気が悪くなると、「黒光さんの葬式だけは逃げられない」と言って礼服を作り、周囲を大いに驚かせたという。

家族 [編集]

長女・俊子(インド人ボースと結婚、2児正秀、哲子をもうけたのち26歳で病死)、長男・安雄(中村屋2代目社長、夫人:和子、子供:長男病死、雄二(少年航空兵)、洋子(自由学園)、悌三、徹(5歳の時空襲で焼死)、隆)、次女・千香子(郵船社員後浅草区長四方謙治と結婚、子供3:君子、悦子、満)、三女・睦、次男・襄二、三男・不明、四男・文雄(17歳でブラジルへ渡り2年後マラリアで死亡)、五男・虎雄(赤にかぶれ親の反対を押し切って女中と結婚、軍医、終戦後シベリア抑留を経てロシア人と結婚、そのままロシアに医者としてとどまる)、四女・哲子(ボースの死後養女に、46年知人の紹介で樋口浩と結婚)。養女・浦子(黒光の叔母の娘・佐々城信子と国木田独歩との子、独歩の略奪結婚だったが破綻し、逃げ出して密かに産んだ子)。
妹喜久子(世界的な解剖学者として名高い布施現之助と結婚したが、夫の虐待に堪えかねて別居)

著書 [編集]

  • 『黙移』 - 自伝
  •  
  • 『穂高高原』 - 随筆
  • 『広瀬川の畔』 - 仙台時代の回想記
  • 『相馬愛蔵・黒光著作集』


中村屋


株式会社中村屋
NAKAMURAYA CO.,LTD
市場情報
略称
新宿中村屋
本社所在地
日本の旗日本
160-0022
東京都新宿区新宿
三丁目2613
設立
創業190112月、創立192341
食品
事業内容
和洋菓子、パンの製造・販売
レストランの経営
代表者
長沼誠(代表取締役社長)
資本金
746940万円(20063月期)
売上高
単体418800万円、連結4332500万円(20063月期)
総資産
単体4358200万円、連結4425400万円(20063月末)
従業員数
単体984人、連結1063
決算期
3
主要株主
中村屋取引先持株会 8.13%
株式会社みずほ銀行 4.93%
三井不動産
株式会社 3.03%
20118月現在)
関係する人物

新宿中村屋・新宿本店。新宿駅東口にある。本店には商品の販売のほか、インドカリーやフレンチ、中華料理などを供するレストランが入っている。建て替えのため平成231110日から平成26年ごろまで仮店舗で営業

新宿中村屋本店のインドカリー
株式会社中村屋(なかむらや)は、東京都新宿区に本社を置く、老舗食品メーカー
一般には老舗の「新宿中村屋」で知られる。和菓子洋菓子の他、菓子パン中華まんレトルト・缶詰のカレー等を製造販売している他、いわゆるデパ地下ショッピングセンター等に菓子の名店として出店(直営店160店)、レストラン(直営店20店)を営業している。
関東エリアのセブン-イレブンで売られている中華まんのほとんどが中村屋の中華まんであるなど[要出典]コンビニエンスストア向け業務用食品にも有力商品を持つ。
その他事業として、旧・笹塚工場跡地に地上18階建ての「笹塚NAビル」を所有し、賃貸事業・スポーツクラブ事業をおこなっている。(笹塚NAビルはかつてマイクロソフト日本法人の本社が入居していた。)
売上比率は菓子事業64%、食品事業20%、レストラン事業13%、賃貸事業1%となっている。(2006年現在)
  • 新宿中村屋インドカリーの店(10店)、他カレー店(1)200810月末現在)
    • 新宿本店でもルパでも同様にインド式カレーを提供。但しメニュー等は異なる。新宿本店は建て替えのため平成231110日から平成26年ごろまで仮店舗で営業
  • オリーブハウス(南欧風レストラン・19店)(200810月末現在)
  • イルベローネ(イタリアンレストラン・1店)(200810月末現在)
  • ファリーヌ(ベーカリー・1店)(200810月末現在)
  • 1901(明治34年)12月 現在の文京区本郷の東京大学正門前にあったパン店中村屋を相馬愛蔵夫妻が店、従業員ともども買い取る
  • 1909(明治42年)9月 新宿(現在の本店)に移転し各種菓子や缶詰等の製造販売も始める。
  • 1923(大正12年)4月 株式会社に改組。
  • 1927(昭和2年)6月 喫茶部を開設、カリーライスとボルシチを売り出す。
  • 1948(昭和23年)8月 多摩川食品株式会社を吸収合併。
  • 1948年(昭和23年)12月 専属の和菓子工場、黒光製菓株式会社を設立。
  • 1951(昭和26年)9渋谷区笹塚一丁目に笹塚工場を新設。
  • 1957(昭和32年)3東京証券取引所上場
  • 1959(昭和34年)10月 エース食品株式会社に資本参加し、社名を株式会社中村屋食品と改称。
  • 1968(昭和43年)11神奈川県海老名市に神奈川工場を新設。
  • 1973(昭和48年)9月 黒光製菓を子会社化。
  • 1977(昭和52年)10月 株式会社ハピーモアを子会社化。
  • 1989(平成元年)9埼玉県南埼玉郡菖蒲町に埼玉工場を新設。
  • 1991(平成3年)12月 株式会社エヌエーシーを子会社化。(現エヌエーシーシステム)
  • 1993(平成5年)2月 エヌエーシーが笹塚NAビル竣工。
  • 1997(平成9年)4月 エース食品とハピーモアが合併。
  • 1998(平成10年)10茨城県牛久市につくば工場を新設。

相馬愛蔵(創業者) [編集]

1901年の創業以来、独創的なパン・食品を作り続けた。1904年にはシュークリームをヒントに現在もポピュラーな菓子パンであるクリームパンを考案した。1927には現在の中華まんのもととなる「中華饅頭」を発売。これが現在の中華まんの始まりとも言われている。
1918に娘がインドの独立運動家ラス・ビハリ・ボース結婚をしたことから、本格的なカリーの調理を学び、1927(昭和2年)に当時の日本では珍しい純インド式カリーを販売している。本店のカリーのキャッチフレーズ「恋と革命の味」はここから生まれ、引き継がれている。
フランスパンを日本で最初に発売した京都の進々堂創業者の続木斎や、山﨑製パン創業者の飯島籐十郎も相馬のもとで勤務していた。
新宿の中村屋本店には愛蔵・良の人柄に惹かれた文化人が盛んに来店していた。その中にロシアの童話作家ヴァスィリー・エロシェンコもおり、彼がレシピを伝えたボルシチも、前述のカリーと並び本店レストランの開店以来の人気メニューである。

逸話 [編集]

寺山修司プレイボーイ誌で人生相談欄を担当していたとき、自殺志望の青年の葉書に対し、「君は新宿中村屋のカリーを食べたことがあるか?なければ食べてから再度相談しろ」と返答した。

木下 尚江(きのした なおえ、18691012明治298- 1937昭和12年)115)は、日本社会主義運動家、作家男性。尚江は本名。
信濃国松本城下(現長野県松本市)に松本藩士・木下廉左衛門秀勝の子として生まれる。長野県中学校松本支校を経て、1888(明治21年)、東京専門学校卒。松本に戻り、しばらくは地元でローカル紙「信陽日報」の記者や社会運動家、弁護士などの活動をする。25歳で松本美以教会の中田久吉牧師より、キリスト教の洗礼を受ける。1899(明治32年)に毎日新聞(旧横浜毎日新聞、現在の毎日新聞とは無関係)に入り、廃娼運動、足尾銅山鉱毒問題、普通選挙期成運動などで論陣を張る。
1901(明治34年)には幸徳秋水片山潜堺利彦らと社会民主党を結成したが、2日後に禁止となる。日露戦争前夜には非戦論の論者として活躍。
1906(明治39年)の母の死をきっかけに、活動の一線から次第に離れるようになる。田中正造の死期に立ち会い、看護を行なっている。
教文館より『木下尚江全集』全20巻が刊行されている。また、松本市の松本市歴史の里内に木下尚江記念館がある。

分県騒動とのかかわり [編集]

1876(明治9年)に松本を県庁所在地とする筑摩県が廃止される(南信7郡と飛騨が一緒で筑摩県といったが、県庁焼失を機に、北信を加えた信州1国を長野県、飛騨は岐阜県へ組み替えられた)と、以後、松本町民(当時)はことあるごとに「県庁が北に偏りすぎている」として松本への移転を叫ぶようになった。木下の帰郷後の1890(明治23年)、「移庁建議書」が県議会に上程され、否決されると、町の世論は「移庁論」から、筑摩県の再設置を求める「県分割論」へと変わった。
木下は当初、移庁論を積極的に推進したが、斯様な世論のすり替わりに対しては痛烈な批判をした。旧筑摩県全体ではなく、松本のみの都合を考えた「我田引水」とみたからである。
彼の言論は反発を呼び、松本の民衆から石を持って故郷から追い出された。この事件は地元住民の視野や価値観の狭隘さが如実に現れたものだが、木下を一地方都市に留まらせずに中央の言論界で活躍させるきっかけを作ったとも言えよう。

荻原碌山(おぎわら ろくざん、1879(明治12年)121 - 1910(明治43年)422)は、明治期の彫刻家。本名は守衛(もりえ)、「碌山」は号である。

年譜 [編集]

1879(明治12年)長野県安曇野市(旧南安曇郡東穂高村)に生まれ、5人兄弟の末っ子だった碌山は、幼い頃から病弱で大好きな読書をしたり、絵を描き過ごした。碌山が17歳の時、運命的な出会いが訪れる。通りがかった女性から声をかけられた。田舎で珍しい白いパラソルをさし、大きな黒い瞳が印象的な美しい女性であった。その人の名は相馬黒光。尊敬する郷里の先輩、相馬愛蔵の新妻で3歳年上の女性であった。東京の女学校で学んだ黒光は、文学や芸術を愛する才気あふれる女性。碌山はそんな黒光から、あらゆる知識の芸術を授けられ、未知なる世界の扉を開いていく。やがて芸術への情熱に目覚めた碌山は洋画家になろうと決意する。
本格的な勉強をしようと、1901 (明治34) アメリカニューヨークに渡り絵画を学ぶ。アルバイトをしながら、アカデミーで西洋画の基礎を学び、来る日も来る日もデッサンを続けた。人間を描くことに夢中になった彼は、目に見えない骨格や筋肉の動きまで徹底的に研究。つぶさに肉体を写し取ろうとした。しかし、碌山はまだ本当に描くべきものを見出せずにいた。そんな修行の日々に1903 (明治36) アメリカからフランスパリに訪れた碌山は衝撃的な作品に出会う。1904 (明治37)に後に近代彫刻の父といわれる オーギュスト・ロダンの「考える人」を見て彫刻を志す。碌山は「人間を描くとはただその姿を写し取ることではなく、魂そのものを描くことなのだ」と気づかされる。
アメリカに戻り、1906 (明治39) アメリカから再度フランスに渡り、アカデミー・ジュリアンの彫刻部教室に入学し、彫刻家になろうと決意する。学内のコンペでグランプリを獲得するほどの実力を身につけていった。1907 (明治40) フランスでロダンに面会。「女の胴」「坑夫」などの彫刻を制作。年末フランスを離れ、イタリア、ギリシャ、エジプトを経て1908年帰国。
そして東京新宿にアトリエを構え、彫刻家として活動を始める。そんな碌山に運命の再会が待っていた。憧れの女性、黒光である。黒光はその頃、夫の相馬愛蔵と上京し、新宿にパン屋を開業していた。碌山は黒光の傍で作品を作る喜びに心躍らされた。相馬夫妻はそんな碌山を夕食に招く(新宿にアトリエを新築、昼と夜の食事は中村屋で一家・社員ともども一緒に食べたし、客が来ても一緒に連れて行った)など、家族ぐるみのつき合いが始まった。黒光の夫、愛蔵は仕事で家を空けることも多く、留守の時には碌山が父親代わりとなって子供たちと遊んだ。黒光は碌山を頼りにし、碌山はいつしか彼女に強い恋心を抱くようになった。しかし、それは決して許されない恋であった。ある日のこと、碌山は黒光から悩みを打ち明けられる。夫の愛蔵が浮気をしてると告白された。(「安曇野」によれば、愛蔵が出戻りの親戚筋の女と不倫しているのを知った碌山が愛蔵を詰ると同時に、自らの黒光への思慕を正当化し、愛蔵にも公言して黒光に迫ったというのが真相)。愛する女性の苦しみを知り、碌山の気持ちはもはや抑えようにもない炎となって燃え始めた。碌山は当時、パリにいた友人に高村光太郎宛ての手紙で「我 心に病を得て甚だ重し」と苦しい胸のうちを明かしている。
行き場ない思いを叩きつけるかのように碌山はひとつの作品を作り上げる。1908 (明治41) 第二回文展で「文覚」が入選。従兄弟で同僚の渡辺渡(わたなべわたる)の妻、袈裟御前に横恋慕し、思い余ってその夫を殺害しようとしたが誤って愛する人妻を殺してしまったために出家。大きく目を見開き、虚空をにらみつけた文覚。力強くガッシリとした太い腕。そこにはあふれる激情を押さえ込もうとした表現されているかのようであった。碌山は愛する人を殺め、もだえ苦しむ文覚の姿に抑えがたい自らの恋の衝動とそれを戒める激しい葛藤を重ね合わせた。一方、黒光は碌山の気持ちを知りながらも、不倫を続ける夫の憎しみにもがき苦しんでいた。碌山は黒光に「なぜ別れないんだ ? 」と迫った。しかし、その時黒光は新しい命を宿していた。母として妻として守るべきものがあった。
出口のない葛藤のなかで碌山は作品を生み出していく。体を地面に伏せ、顔をうずめた女性「デスペア」1909 (明治42)。苦しみながらも現実を生きていかなければならない。そこには逃れられない黒光の絶望感が込められていた。同年、 第三回文展「北条虎吉像」「労働者」を出品。1910 (明治43) 追い討ちをかけるように不幸な出来事が起こる。黒光の次男の体調が悪くなり、病に伏せる日が多くなった。次男を抱える黒光を碌山は来る日も来る日も描き続け、「母と病める子」を世に出した。消えかかる幼い命を必死に抱きとめようとする黒光。しかし、母の願いもむなしく次男はこの世を去った。悲しみのなか、気丈に振舞う黒光に碌山は運命に抗う人間の強さを見出してゆく。そして思いのたけをぶつけるように、同年「女」を制作。何かに捕らわれているかのようにしっかりと後ろで結ばれた両手。跪(ひざまず)きながらも立ち上がろうとし、天に顔を向けている。信州大学名誉教授の仁科惇はこの「女」を「矛盾しているかもしれないが、碌山は希望と絶望が融合した作品である。手を後ろに組んで跪いて立ち上がっているのは一種の絶望感の現れでしょうし、そうは言っても顔は天井に向けられ、この構成全体から、希望といったものが込められている。そういう葛藤を『相克の中の美』が宿っているのではないか。自分の思いを作品に昇華させた」と評している。黒光はこの像を見て「胸はしめつけられて呼吸は止まり・・・自分を支えて立っていることが、出来ませんでした」と語っている。
同年、422日急逝。死因は不明。多量の吐血・喀血をしているが、結核という診断はなく、他方日頃服用していた皮膚病の粉薬には亜ヒ酸が混ざっていて、多量に飲むと命取りになると警告されていたところから自殺説もある。相馬夫妻の次男襄二が直前に結核で死亡しており、碌山が添い寝までして看病していたのが原因とも。
第四回文展に「女」が出品され、文部省により買上げ。
1958.4.22. 49回の碌山忌を迎え、碌山美術館が落成開館。藝大の石井鶴三教授を中心とした碌山研究の高まりを受け、豊科小学校の松田校長の発意推進によるもの。松本中学付近の土地に早大今井教授の設計の建物、全作品をブロンズ化して収めた

主な作品 [編集]

  • 「坑夫」
  • 「文覚」(1908
  • 「北条虎吉像」(石膏原型が重要文化財指定)
  • 「女」(石膏原型が重要文化財指定)

収蔵美術館 [編集]

など

その他エピソード [編集]


ラス・ビハリ・ボース(ヒンディー語:ラース・ビハーリー・ボース रास बिहारी बोसベンガル語:ラシュビハリ・ボスゥ রাসবিহারী বসু英語Rash Behari Bose 1886315 - 1945121)はインド独立運動家。日本姓:防須
過激派として指名手配され、日本に逃れてインド独立運動を続けた。スバス・チャンドラ・ボースと区別するため、「中村屋のボース」とも呼ばれる(新宿中村屋の相馬家の婿であり、取締役もつとめた)。日本に本格的なインドカレーを伝えた人物としても有名である。
チャンドラ・ボースより年長で、43.6.日本で初めて会うが、その後解放運動の指導者を譲って引退

人物・来歴 [編集]

生い立ち [編集]

1886に、当時イギリスの植民地支配下に置かれ「イギリス領インド帝国」と呼ばれていたインドのベンガルに生まれた。ベンガル政府の官僚であった父が単身赴任していたため、祖父と母の手によって育てられ、シャンデルナゴル(チャンダンナガル)とコルカタ(カルカッタ)の学校で学んだ。

独立運動 [編集]

イギリス植民地政府の官吏として、デヘラードゥーンの森林研究所で事務主任を務める一方、インド国民会議に参加し、独立運動に身を投じた(当時の多くの上流階級の子弟がそうしていた)。チャールズ・ハーディング総督暗殺未遂事件や、「ラホール蜂起」の首謀者とされ、イギリス植民地政府に追われ、偽名を使い1914に日本に亡命した。
近代インドを代表するヒンドゥー教指導者オーロビンド・ゴーシュの宗教哲学に影響を受けた。

日本への亡命 [編集]

日本では東京に住み、故国の独立運動を背後から支援しつつ、先に日本に亡命していたバグワーン・シンの紹介により孫文と親交を結んだ(当時袁世凱と対立し日本に亡命していた)。また、ヘーランバ・ラール・グプタの紹介により大川周明とも親交を結んだ。
当時大英帝国と同盟関係にあった日本は、イギリス政府の要求により来日してわずか4か月のボースに国外退去を命令する。頭山満養毅内田良平などのアジア独立主義者たちはこれに反発し、新宿中村屋の相馬愛蔵によってラースをかくまわせることを工作。その後4ヶ月間、ラースは中村屋のアトリエに隠れて過ごしている。
やがて頭山らの働きかけもあり、1915に日本政府はラースの国外退去命令を撤回した。しかしイギリス政府による追及の手は1918末まで続き、日本各地を転々とした。1918年にボースはかねてから恋仲にあった相馬夫妻の娘、俊子と結婚し、1923には日本に帰化した。俊子との間には2人の子供をもうけたものの、俊子は192828歳の若さで亡くなった。

インド独立連盟とインド国民軍 [編集]

A.M.ナイルなど日本に亡命していたインド独立運動家たちと協力しあい、またイギリスと対立を強めていた日本政府や軍部と協力関係を結んだことで、ラースはインド国外における独立運動の有力者の1人となった。
日本は1941太平洋戦争大東亜戦争)を起こし、イギリスの植民地を含む東南アジア各地域を占領したが、日本軍は同地におけるインド人に対して扱いが丁重だったと言われる。その背後には、ラースとA.M.ナイルの努力があった。
その後1942年初頭に、かねてより植民地軍として駐留していたイギリス軍を放逐し日本が占領したマレーやシンガポールでは、捕虜となった英印軍将兵の中から志願者を募ってインド国民軍が編制された。その長には最初に日本軍に投降した元英印軍の大尉であったモーハン・シンだった。しかし、シンは親イギリス的志向が強かっただけでなく、軍内において自身に対する個人的利益を優先させた上に、そもそもが大尉という下級士官にすぎなかったこともあり、数千人を数える規模となったインド国民軍を統率することは困難であったため軍内に大きな混乱を招いた[1]
そのためにインド国民軍は「インド独立連盟」(インド独立連盟と印度独立連盟が合流したもの。議長はラース)の管轄下に入り、その後連盟内で孤立したシンはインド国民軍司令官を罷免される。しかし、この様な混乱により心労を重ね体調を崩したラースは、194374にシンガポールにおけるインド独立連盟総会において、インド独立連盟総裁とインド国民軍の指揮権を、総会に先立ち亡命先のドイツからシンガポールへ来たスバス・チャンドラ・ボースに移譲し、自らはインド独立連盟の名誉総裁となった。

自由インド仮政府 [編集]

その後同年10月に、ラースとチャンドラ・ボースは日本政府の援助を受けてシンガポールに自由インド仮政府を樹立し、首班となったチャンドラ・ボースとともに指導者の1人となり、日本政府の協力を受けてイギリスとの闘争と、インド国民会議派をはじめとするインド国内の独立勢力との提携を模索した。
その後自由インド仮政府は同年1024にインドを支配するイギリスを含む連合国に対してインド独立のための宣戦布告を行い、同年115東京で開催された大東亜会議にボースがオブザーバーとして出席した。オブザーバーとなったのは日本がインドを大東亜共栄圏に組み込まないという意思を明確にしていたからである[2]
1944年にはインド進攻のため、仮政府本部を当時日本の占領下にあったビルマラングーンに移転させ、「インド解放」のスローガンの下に自由インド仮政府の「国軍」となったインド国民軍は、1944年に入ると日本軍とともにインドやビルマのイギリス軍と戦い、インパール作戦に従軍しイギリス軍を苦しめた。

客死 [編集]

しかしこの頃になると入院するほど体調を悪化させたラースは、インド独立が現実となる日を見ることなく、A.M.ナイルらに看取られながら1945121に日本で客死した。なお日本政府はその死に際し、勲二等旭日重光章を授与してラースの功績を称えた。同年6月には、長男の正秀も沖縄戦で日本軍人として戦死している。なおインドは、日本が連合国に敗北してからちょうど2年後の1947815に、イギリスから独立を勝ち取った。

日本のインドカレーの父 [編集]

昭和初頭に日本に普及していた「カレーライス」は、インドのカレーとは全く別物であった。イギリス式に改変されたカレーが、さらに軍隊式に簡略化されて安価な食べ物として普及していたためである。ラースはかねがね「インドのカレーはあんなものではない」と憤慨していたが、中村屋が1927に喫茶部を新設する際、相馬夫妻に本格的なインドカレーを出すよう強く進言し、自らメニュー開発に関わった。これが同店の名物メニューとして現在まで続いている「純インド式カリー・ライス」である。
ちなみにラースとともに日本でインド独立運動をしたA.M.ナイルも、1949インド料理店「ナイルレストラン」を開店して現在にいたるまで盛業である。彼らが日本に伝えたインドカレーが、日本のカレー文化に与えた影響は小さくない。

多田 駿(ただ はやお、1882(明治15年)224 - 1948(昭和23年)1218)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。宮城県仙台市生まれ。旧伊達藩士出身。仙台陸軍地方幼年学校1期)、陸軍士官学校(第15期成績順位35番)砲兵科、陸軍大学校(第25期成績順位12番)卒業。
黒光の姉の子?
日中戦争開戦当時(参謀本部次長時代)には、戦線不拡大・蒋介石との和平交渉継続を唱えていた。東條英機と対立したため、東條が陸軍の実権を握り首相となってからは予備役から呼び戻されることなく終戦を迎えることになった。
§  1937年 参謀本部次長(総長が閑院宮だったので実質参謀総長)
§  1937年~1938年 陸軍大学校校長を兼務。
§  1938年 3司令官。
§  1939年 北支那方面軍司令官。
§  1940年 功二級金鵄勲章を受章。
§  1941年 大将に昇進 軍事参議官に就任
§  1941年 東条の方針と相容れず予備役に編入(以降 房州館山に籠って営農生活)
§  1945年 A級戦犯の容疑で逮捕
§  1948年 胃癌で死去
§  1948年 釈放(既に死去していたが、釈放者のリストには入っていた)

日中戦争不拡大論者として [編集]

1936年、多田駿は冀察政務委員会の委員長・宋哲元と防共協定を結んでおり、田代皖一郎橋本群と共に対中穏健派であった。
19377月の盧溝橋事件に端を発して日中戦争が始まったが、多田は蒋介石政権よりもソ連の脅威を重視しており、参謀本部作戦部長の石原莞爾少将・陸軍軍務課長の柴山兼四郎大佐らと、戦線不拡大を唱えていた。
1937年末、蒋介石との講和のタイミングと見て、ドイツ仲介よる和平工作(トラウトマン工作)を展開する。
1938115日 大本営連絡会議に参謀本部次長として出席。「トラウトマン工作打ち切り」を唱える政府側(近衛文麿首相・広田弘毅外相・杉山元陸相・米内光政海相)に対し、参謀本部側は和平工作継続を主張しており、多田は1人蒋介石との和平交渉継続を唱えるも押し切られる。翌日、近衛首相は「以後蒋介石は交渉相手としない」旨を宣言
戦争拡大反対の言動が、東京裁判ではあべこべに広田に禍したことを悔やむ

その他 [編集]

§  張作霖爆殺事件河本大作大佐は、妻の兄
§  陸大教官時代に、「支那人1万人の捕虜を得た情況で如何に処理すべきか」との問題を出す。学生達は様々に苦心した答案を用意したが、多田が用意していた模範解答は以下の通りだったという。「全員武装を解除した上で釈放、生業に就かしむるべし」。
§  川島芳子が特務工作員として思うように動かないと感じ始めると、暗殺命令を出していたともされている。
§  支那駐屯軍司令官在任中の19351217日に天津の多田駿宅に爆弾が投げ込まれ、中国人召使が負傷した事件がある。これ以外にも満州国建国から盧溝橋事件までにあらゆる抗日テロがあった。
§  慈愛・情の将軍。満州国の最高顧問でいたときも、皇帝が帰任を1年延ばしてくれと懇請した

石川 三四郎(1876523 - 19561128)は、日本の社会運動家・アナキスト作家。筆名の「旭山」も使用する。
埼玉県児玉郡山王堂村(現在の埼玉県本庄市山王堂)に、戸長であった五十嵐九十郎・シゲの三男として生まれる。生家は、利根川沿岸で江戸時代から船着き問屋を営み、名主も務めてきた家であった。徴兵を逃れるため、同村の石川半三郎の養子となった。
東京法学院(中央大学の前身校)に在学中、海老名弾正の本郷教会(現在の弓町本郷教会)に通ってキリスト教に接近し、卒業のころに受洗する。
1901に東京法学院を卒業、弁護士試験と高等文官試験に失敗し、堺利彦花井卓蔵の斡旋で『万朝報』の発行所である朝報社に入社する。堺と幸徳秋水190311月に平民社を開業するとこれに合流し、戦論社会主義を主張して週刊『平民新聞』、『直言』に多くの論説を発表する。平民社の解散以後、木下尚江の誘いを受けキリスト教社会主義の立場を採る『新紀元』を創刊する。この時期、田中正造と行動を共にし、足尾銅山鉱毒事件に取り組む。幸徳が日刊『平民新聞』を創刊すると、『新紀元』を廃刊して合流した。また、日本社会党に分裂を阻止するため第2回大会で加入し、堺と並んで幹事に選出された。
大逆事件に大きな衝撃を受け、ベルギーや中国のアナキストの支援を受けてヨーロッパに渡る。
イギリス、フランス、ベルギーなどでルクリュ一家やドワード・カーペンターなどの著名なアナキストと親交を結び、第一次世界大戦に遭遇。
第一次大戦後、日本に帰国。関東大震災直後には警察に拘束されるも、親交のあった侯爵徳川義親が保護に来て、辛くも難を逃れた。大杉栄死後の日本のアナキズムの中心人物の一人となる。
石川は、多くのアナキストが満州事変前後に国家主義軍国主義に共鳴し、農本主義などに絡めとられていく中、満州事変を鋭く批判し、決して軍国主義や国家主義に与せず、アナキズムの孤塁を守った。
石川は、デモクラシーを「土民生活」と翻訳し、独自の土民生活・土民思想を主張、大地に根差し、農民や協同組合による自治の生活や社会を理想としたが、権力と一線を画し下からの自治を重視した点において、農本主義とは異なるものだった。太平洋戦争中は、独自の歴史観から東洋史研究にも取り組んだ。
敗戦直後に「無政府主義宣言」を書き、昭和天皇への共鳴と支持を主張。左派やアナキストからの非難を受けたが、石川がもともと通常の右や左の範疇に属さない、独自の論理と思想の人間であったことを考えれば、戦中の抵抗も敗戦時の天皇支持も、石川においては一貫した独自の感性や思想に基づいたものだったといえる。
[要出典]に評論家の望月百合子がいる。

中野重治『五勺の酒』問題 ⇒ 天皇制の問題で著者が度々引用
 天皇および天皇制を論じながら、敗戦の翌々年に中野重治が書いた小説「五勺の酒」にふれた人は、わたしが目にしただけでも二、三にとどまらない。そしてそれらの論は例外なく生真面目そのものとでも言うべき性格において共通していた。たとえば井上良雄の「裕仁天皇と私」(『時の徴』54号)などその代表的なものだ。わたし自身、ヒロヒト天皇の吐血から十日後に書いた文章(反天皇制運動連絡会パンフレット4号所収)で、この小説を引き合いに出したのだから、これは他人ごとではなくわたしを含めてということになる。
「五勺の酒」のなかには、天皇制に批判的なひとびとの天皇観に、ある種の倫理的な反応を呼び起こすいくつかの主張がある。「恥ずべき天皇制の頽廃から天皇を革命的に解放すること」とか、「天皇個人にたいす人種的同胞感覚をどこまで持っているか」というような部分がそれである。このように非人間あるいは半人間でしかない敵をも人間として救済することで、敵を解体するという志向は正しいか、美しいか。疑いもなくそれは正しく美しい、もしその志向がその敵にたいする無垢の怒りに支えられているのならば。そしてそこに「五勺の酒」の「未完」という問題がある。
 中野重治は新版全集の「著者うしろ書」にこう書いている。
「『五勺の酒』、これは、作者としていえば前半分だけ発表されたものである。一人の中学校長から手紙が来た。友人の共産党員がそれを受けた。そして返事を書く。往復あわせてが『五勺の酒』だった。返事の分が書かれずじまいのまま今日にきたのである。今になお、今になっていっそう切に、それの書きたい瞬間が瞬間的にある。」
 これが書かれたのは死の二年前であった。そして返信はついに書かれずに終った。なぜ中野はこの作品に死の間際までこだわったのか。どこにこだわったのか。かれの晩年にそれを直接きく機会をいくらももちながら、それを果たさなかったことをわたしは残念に思うが、推測がまったくできないわけではない。それはあのとき、天皇を日本人のなかでしか、「人種的同胞感覚」のなかでしか批判できなかったことへの、そしてそのことによって日本人民の倫理の再建の道をせばめてしまったことへの、反省ということがあったと思われる。
「五勺の酒」という作品は、当時の日本共産党の天皇制攻撃のやりかたに対する共産党員・中野重治の批判として書かれた。しかし同時にそれは、共産党の天皇制攻撃に不快感をあらわして新日本文学会を脱会した志賀直哉への、弁明としても書かれたのである。もちろんわたしには、中野の「政治的な意図」というようなものをほのめかして、この作品をおとしめようなどというつもりはまったくない。しかしこの作品は、時代と状況の刻印を深く刻まれた作品であり、あれから四十年の歳月と経験をふまえて、その「未完」をわれわれ自身が自分の手で書きつがなければならないものとして、われわれの前に残されているのだということだけは、言っておきたい。
 あとは走り書的に。「五勺の酒」にふれた文章は例外なく生真面目だ、と最初に書いた問題。それはこの作品が深く日本人の倫理を問題にしていることに由来するだろう。しかし倫理も、倫理のたたかいもまた笑いでありうる。ガルガンチュワ的な哄笑こそ最高に倫理的だ。天皇制は笑いを圧殺する。
 もちろん笑いのなかには陰惨な笑いもある。それは批判され克服されなければならない。しかしその批判もおおらかにやりたい。味方のなかに多くの敵を発見するのではなく、より多くの味方をつくりだすような批判でありたい。いまここでの批判の質が、たたかいのかたちが、われわれの解放の質とかたちを決定するからだ。(『情報センター通信』1989年5月31日号)

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