バーンスタイン わが音楽的人生  Leonard Bernstein  2012.7.12.

2012.7.12. バーンスタイン わが音楽的人生                 (左開き、横書き)
Leonard Bernstein : Findings  1982

著者 Leonard Bernstein 19181990。 アメリカ生まれのユダヤ系移民二世。作曲家。指揮者。カラヤンと並び、世界的評価を受けた20世紀クラシック界の巨匠。

訳者 岡野弁 1927年京都生まれ。同志社大経卒。サンケイ新聞入社。文化部音楽担当。62年バーンスタイン来日の際には単独インタビューに成功。《ウェスト・サイド物語》日本公演では台本を翻訳、比良九郎のペンネームで出版。70年退社後、ミュージック・ラボ創立、音楽専門誌発刊。90年レコード大賞審査委員長。

発行日           2012.4.10. 第1刷印刷                4.20. 第1刷発行
発行所           作品社

バーンスタインの著書5冊邦訳の最後
The Joy of Music  バーンスタインが「すべての疑問に対する答えがある」とした本
Young People’s Conserts
アメリカは白人によって開発されたが、この国の民族音楽は実は黒人のジャズが核となっている
ある作曲家の作品が初演される前に、人々に強い関心を持たれ、取り沙汰されるという場面はストラビンスキー以後、無くなった。作曲家と聴衆の乖離の現実を指摘し、その現象は、ルネッサンス以降、人類が初めて味わう50年であるとして嘆きつつ、自ら作曲し、さらにテレビという新しい媒体を通じて、多くの人々に音楽を教え、多くの人達を聴く人に育てる努力もしてきた

64歳の誕生日にこれまで書いてきた記録をまとめた ⇒ 回顧録というより、青年期から次第に成長し大人となった人生の全般にわたる、過去の感覚と思想の真の発見である(『回顧録』を執筆する前に亡くなったので、本書が最後の著書)
²  最初のものは14歳の時の作文 ⇒ 掲載されていない
²  『父の本』1935 ⇒ 父が手に入れた物質的成功は、副業ともいうべき宗教活動の所産であり、総ての道徳と社会倫理の原点は『タルムート』にあった
²  『ボストンの新しい音楽』1938 ⇒ プロコフィエフがアメリカツアーの最後をボストンでの全演目自作の演奏会で飾る
²  『教訓を伴った真実の物語』1938 ⇒ 大学時代に書いたカーラ・ヴァーソンの「オール現代楽曲」の演奏会への批評。芸術作品を普及させる殉教者を気取っているが無謀
²  『アメリカ音楽への民族的要素の導入』1939 ⇒ ハーバード大学学士論文で、ティン・パン・アレーから生まれた黒人音楽としてのジャズの影響が大きい。黒人独特の旋律、黒人のリズムパターン(感覚を唯一の特徴とする)、黒人の音色、4/4拍子の基本、対位法的アプローチが特色。
2次大戦後の瞑想 19461957
²  声明―指揮対作曲 ⇒ 自分の活動からどれか一つだけを選択するのは不可能。いついかなる時もあらゆる犠牲を払ってでも、為すべきことを為す。ひとつのことに没頭している時には他のことは手をつけない。そこにはある特別な秩序があり、それを計画することは困難。
²  《ウェストサイド物語》日誌からの抜粋 19491957 ⇒ 461月にジェローム・ロビンスがアイディアを出してきてから、57.8.オープニングまでの出来事
ニューヨーク・フィル時代 19591967
²  『オルガ・クーセヴィツキーへの書簡』1959 ⇒ 亡くなった恩師夫人への手紙。クーセヴィツキーから「オーケストラの前では作曲家の秘密を暴露する魔術師となるのだ」と教えられたこと、入院の知らせを聞いて駆け付けた翌日に亡くなったこと、そして彼の指揮による演奏は、リパッティ以外では唯一、まるで幻覚剤を飲んだかのように、一つ一つの音楽の要素、感触、抑揚、間に反応するという聴き方をさせてくれた、と敬意を込めて思い出を語る
セルゲイ・クーセヴィツキー(18741951) ⇒ ロシア出身のユダヤ人指揮者、作曲家。192449ボストン交響楽団の常任指揮者。タングルウッドでの教育プログラムを創設し(バークシャー音楽センター)、多くの若い音楽家を育てた。バーンスタインの恩師
²  『全米記者クラブでの講演』1959(実際には原稿なしで講演) ⇒ ロシアでの自ら経験した偏向報道の恐ろしさについて語り、アメリカの記者に他山の石とするよう警告
²  『ヴァレーズ、クーセヴィツキー、そして新しい音楽』1963(NYプラザ・ホテルでのお祝いのスピーチ) ⇒ クーセヴィツキーへの敬意。作曲者優先という基本的で不滅の教訓を与えてくれた。現代音楽育成のためにクーセヴィツキー国際レコード賞創設、その第1回目の受賞作品がヴァレーズの《アルカナ》
ヴァレーズ(18831965) ⇒ フランス出身のアメリカの作曲家。打楽器と電子楽器による独自の音色とリズムの空間を追求。20世紀後半で最も影響力ある作曲家とされる
²  『ジョン・F・ケネディへの弔辞』1963 ⇒ ユダヤ人抗議連合慈善イヴェントでのスピーチ。前夜、ニューヨーク・フィルと私はマーラーの《交響曲第2番『復活』》を追悼記念に演奏したが、その選曲の理由は、彼の死を悼むすべての人の希望と復活のため、彼の死を悼むと同時に、私たちは彼に値する人間にならなければいけない。死の数時間後に予定されていた彼のスピーチでは「アメリカのリーダーシップは、学問と理性によって導かれなければならない」というはずだった。学問と理性という2つの要素こそ、あらゆるユダヤ人的伝統の基本的原則であり、総てのユダヤ人が生きる力を引き出してきた一対の源泉
バーンスタインは、自ら作曲した《交響曲第3カディッシュ(ユダヤ教の祈りの言葉)”》の初演の前月に起こったケネディ暗殺を受けて、その鎮魂の曲とした。スコア冒頭に「To the beloved memory of John F. Kennedy(ジョン・F・ケネディの大切な想い出に)」とある
²  『演奏プログラムの作成について』1965 ⇒ 音楽批評家たちに送られた所見。
今世紀中に交響曲という形式に何が起こったのかを、ニューヨーク・フィルの演奏プログラムを通じて検証する
今世紀の重要な転換期を代表する作曲家がマーラー ⇒ 特に第7~第9交響曲
もう1人がシベリウス ⇒ 全交響曲
それ以外では、ヴォーン・ウィリアムスの第4番、ウェーベルンの作品21、プロコフィエフの第5番、ショスタコーヴィッチの第9番、アメリカからはアイヴズの第3番、コープランドの第3番等を演奏する
²  『ルーズベルト賞受賞記念スピーチ』1966 ⇒ エレノア・ルーズベルト人文科学賞の授与式における挨拶。大きな名誉だが、1つの重荷、スピーチをしなければならないという重荷もついてくる。ルーズベルト世代として育った1人であり、大統領を頼りにし、その精神、知性、明晰さ、思いやり、優雅さから力を与えられた。大統領亡きあと、夫人が私の友人となる奇跡が起こった。Do gooder(慈善家)であり続けたことに感謝する
エレノア・ルーズベルト ⇒ トルーマン大統領の要請で国際連合の第1回総会代表団となり、46年のロンドンの総会では人権委員会の委員長に選任され、48世界人権宣言採択。52年国連代表を退任。53年からは各国の女性団体に招聘され、女性の地位向上に八面六臂の活躍。ヒラリー・クリントンが登場するまで、アメリカで「最も活動的なファーストレディ」の評価を独占。現在に至るまでアメリカでは、ホワイトハウスを去った後に公職に就いたファーストレディはこのエレノアとヒラリーの2名だけである
²  Charge to the Seniors(最上級生への要請)1966 ⇒ ヘレン・グレース・コーツ(少年時代のピアノの先生で、後に個人秘書)の依頼で彼女の母校ロックフォード大卒業式に来賓としてスピーチ(一般的に表題のように呼ばれている)。『ハムレット』の中からポローニアス(デンマーク国王の侍従長、後に誤ってハムレットに殺されるが、フランス留学に出発する息子に忠告している)の忠告が今に通用しないが結論だけは普遍であり、思い遣りと良心を取り戻し、それらを大切にしてほしい、その輝きの中であなた自身の真の自己を見つけ出してください。誰に忠実であるべきかが明快に分かれば、間違いなく他人に対しても忠実にならざるを得ないのです
   思ったことを口に出すな。またとっぴな考えを軽々しく行動に移してはならぬ
   人に親しむはよし、だがなれなれしくはするな
   語るにたる友と見極めをつけたら、たとえ鉄のたがで縛り付けても離すでない。だが、羽根も揃わぬヒヨコのような仲間と誰彼かまわず握手して手の皮を厚くするな
   喧嘩には巻き込まれぬよう用心せねばならぬが、一旦巻き込まれたら相手が用心するまでやれ
   人の話には耳を傾け、自分からは滅多に話すな。他人の意見は聞き入れ、自分の判断は控えるのだ
   財布の許す限り着るものには金をかけるがいい、風変わりなのはいかんぞ、上等であって派手ではないのだ
   何より肝心なのは、自己に忠実であれということだ。そうすれば、夜が昼に続くように間違いなく他人に対しても忠実にならざるを得まい
²  Mahler:His Time has Comeマーラーの時代がやってきた』1967 ⇒ マーラーの交響曲全集(CBS)発売に当たっての感想。同時代の作曲家の中で、マーラーこそが、ただ世界が半世紀後に何を知り認めるようになるかを既に知っていた、という意味において予言的だった

最後の10年 19691980
²  Aaron Copland at 70:An Intimate Sketch70歳のアーロン・コープランド―親密な描写』1970 ⇒ 「音楽的友情の思い出」と題する『ハイ・フィデリティ』誌への寄稿。アメリカ音楽を荒野の外へと導く作曲家として尊敬する。彼の《ピアノ変奏曲》は事実上私のトレードマークとなった。私の作曲の教師であり、多くの若い音楽家が彼を導きの灯として慕った。公演のために作曲を止めたことに不満を表明し、再開を期待する
²  Homage to Stravinskyストラヴィンスキーへの敬意』1972 ⇒ 1年前に死去した大作曲家への思慕を綴る。西洋音楽が最後に持った偉大な理想の父親像だった。
²  Memories of Curtis Instituteカーティス音楽院の想い出』1975 ⇒ 50周年記念同窓会でのスピーチ。カーティスでの2年間はいいも悪いも混ざった寄せ集めだった。特にハーバードを卒業して入学した自分にとって、混乱を極めたのは事実
²  Commencement Speech at Johns Hopkinns Universityジョン・ホプキンス大学での卒業式講演』1980 ⇒ 初代学長は、「大学の目的は、知識を授けるというよりむしろ欲求を刺激することにある」といっていた。想像力に富む思考の質こそ他人との違いを
19391945の欠落 ⇒ トラウマを負ったために、痛みを抑圧し、それを経た後では世界が決して元に戻れなくなった大虐殺の結末から、内なる目を逸らしたため


バーンスタイン わが音楽的人生 レナード・バーンスタイン著 躍動感ある新鮮な言葉の記録 日本経済新聞朝刊2012年5月27フォームの始まり
フォームの終わり
 通読し終えて、バーンスタインがいまもしこの時代に生きていてくれたらという強烈な喪失感を再び味わった。いま生きていれば今年94……。それほどまでに、ここにあるバーンスタインの言葉は、あたかも発せられたばかりのような生々しさと躍動感で、一人の偉大な指揮者・作曲家にして思想家の姿を伝えてくれる。
(岡野弁訳、作品社・4200円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 本書は自叙伝というよりは原題のFindingsという言葉が示すように、彼の人生のその時その場で発せられた言葉の記録であり、真実の発見の痕跡である。その対象は芸術・社会・政治・民族・宗教などあらゆる領域にわたる。
 世界全体を矛盾したまま、変容するがままに、大きくつかみとろうとすることは、バーンスタインがマーラーから継承した偉大な才能であった。彼はマーラーが「西欧社会の退廃の始まりの瞬間を捉えるカメラ」のようであり、その音楽に人間の本質である「二重性」が豊かに息づいていることを発見した。荒削(あらけず)りで柔弱、洗練だが粗野、客観的で感傷的、引っ込み思案で気宇壮大、自信に満ちて自信なさげ……。マーラーの本質をえぐる論考はいまも新鮮で雄弁だ。
 ベートーヴェンについても見事な洞察をバーンスタインは示す。その偉大さとは「子供のように信じる純粋な単純さ」「人を魅了する無邪気さ」「可愛(かわい)らしさ」であるというのだ。一見荒々しい「ベートーヴェンのなかに住まっていた子供の心に、徹底的に身を委ねる」ことこそが、演奏には不可欠だという。
 バーンスタインは徹底した人間主義者であり、民主主義者でもあった。そしてその道の苦難に満ちていること、想像を絶する遠回りをしなければいけないことを了解していた。亡くなったケネディへの弔辞はとりわけ心を打つ。
 バーンスタインは大統領の言葉「アメリカは学問と理性によって導かれなければならない」を引用し、「無知と憎しみ」の反語である「学問と理性」こそ、どのような犠牲を払ってでも私たちすべての行動の基盤とすべきと訴える。
 20世紀を代表する良心的音楽家の遺言として、現代の日本人にも広く読まれるべき一冊である。
(音楽評論家 林田直樹)

『バーンスタイン わが音楽的人生』

2012.6.10 09:00
 バーンスタインは一度聴いた音楽のメロディーを忘れることは決してなかった。長女のジェイミー・バーンスタインが評者の取材に話していたことだ。それはクラシックばかりではない。ラジオから流れてきたジャズやポピュラー音楽も、家族にささやかな話題を提供したという。すべての音楽がバーンスタインの血肉となっている。
 ジャンルを超え20世紀後半を代表する音楽家として活躍したバーンスタイン。クラシックファンにはカラヤンと世界の人気を二分した指揮者として知られる。ミュージカルファン、映画ファンには「ウエスト・サイド・ストーリー」の作曲者として記憶されているはず。日本人にとっては世界的な指揮者、小澤征爾の師匠としてなじみ深い。
 本書には、「アメリカ音楽への民族的要素の導入」と題されたハーバード大学の学士論文、ライフワークとなったオーストリアの作曲家マーラーに関する見解など音楽関係のほか、16歳のときのボストン・ラテン・スクールでの作文にはじまり、ジョン・F・ケネディへの弔辞、64歳の誕生日に書いた「はじめに」など、半世紀近いさまざまな文章が収められている。
バーンスタインは、カラヤンの静的な指揮に対して、情熱的な動きの伴う指揮姿が聴衆を魅了した。しかし、その文章は冷静である。ドイツ語で本を読み、フランス語で会話できたという表面的な知識ではなく、本物の教養を身につけた上での指揮だったことが本書から分かるだろう。
 1970年、アメリカのタングルウッド音楽祭での講演が収められている。「私たちにはリーダーがいない」と嘆き、性急に答えを求める若者たちを戒め、困難でもこの「幼稚な性急さ」を克服しなければいけないという。しかし、瞬時に夢をかなえたいという衝動は、希望があるからこそ、と理解を示す。そして「忍耐が必要だが、受動的であってはならない」、すぐにでも仕事に取りかかれ、能動的であれとハッパをかける。
 バーンスタインは行動の人でもあった。まさに戦後アメリカを体現する人物だった。(レナード・バーンスタイン著、岡野弁訳/作品社・4410円)
 評・江原和雄(モーストリー・クラシック編集長)









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