仏独共同通史 第一次世界大戦  Jean-Jacques Becker &Gerd Krumeich  2012.7.9.

2012.7.9. 仏独共同通史 第一次世界大戦 上下
La Grande Guerre ― Une Histoire Franco-Allemande  2008

著者 
Jean-Jacques Becker ジャン=ジャック・ベッケール 1928年パリ生まれ。フランス現代史の長老。パリ第10大学(ナンテール)名誉教授(6894教授)。ペロンヌ大戦博物館・研究センター名誉所長(初代所長)1914年大戦勃発時のフランス世論を扱った国家博士論文により、その後のフランスにおける大戦史研究をリードする存在に。
Gerd Krumeich ゲルト・クルマイヒ 1945年デュッセルドルフ生まれ。ドイツ、オーストリア、フランスで学ぶ。モムゼンの指導の下、第1次大戦前夜のフランスの軍拡と内政に関する論文で博士号取得。専攻はドイツ・フランス近現代史。フライブルク大教授。デュッセルドルフ大名誉教授(モムゼンの後任として2010年まで在籍)。ペロンヌ大戦博物館・研究センター副所長

訳者
剣持久木 1961年東京生まれ。フランス現代史。上智大大学院文学研究家博士後期課程単位取得退学。静岡県立大学国際関係学部国際言語文化学科准教授
西山暁義 1969年神奈川生まれ。ドイツ現代史。東大大学院人文社会系研究家博士課程修了。共立女子大国際学部准教授

発行日           2012.3.16. 第1刷発行
発行所           岩波書店

その後の世界のあり方を決定的に変えたと言われる第一次世界大戦の歴史を、政治史・経済史・軍事史・外交史に留まらず、社会史・文化史(戦場での暴力、兵士や銃後の市民の意識、社会統合、戦後の記憶のあり方…)の最新の成果を踏まえ、総合的に描き出す。仏独両国の大戦研究の第一人者が共同で執筆した定評ある通史の翻訳。上巻は、普仏戦争から開戦に至るまでの国際関係を辿るとともに、国内統合や戦争文化、動員の問題など仏独両国の戦時体制を明らかにする。下巻は、長期戦や戦場の暴力の問題を取り上げるとともに、連合国の勝利と講和に至るまでの推移を辿り、第一次世界大戦をヨーロッパの統合過程の出発点に位置付ける

本書で特に明らかにしたかったのは、ヨーロッパの「兄弟国」間の対決が経済的原因や物質的な利害によって引き起こされたのではないということ ⇒ 祖国の防衛のために、国民が生き残るために最も大切だと信じられたもののために引き起こされたのであり、これこそが常軌を逸した大戦において、「謎めいた」顔を与えたのだ

はじめに
世界の様々な地域が戦争に参加したが、明らかに、そして何よりもまず、ヨーロッパの戦争であり、フランスにとっては1870年の普仏戦争に続く第二次仏独大戦であり、ドイツにとっては戦争はほとんどドイツ領外で展開したこともあって、戦争の根底にあるのはフランスとの対決ではなく、むしろイギリスとの対決だった ⇒ ヴィルヘルム2世はヴィクトリア女王の孫であり、大抵のドイツ人は自分たちとイギリス人は同じ人種に属していると考えており、最後までイギリスが干渉することはないと信じていた
主要な軍事勢力を形成したのはフランス軍とドイツ軍であるのは間違いなく、どちらかが持ちこたえることが出来なかったら、戦争が長引くことはなかった
ペロンヌの大戦歴史博物の設立によって、両国の側から同時に歴史を書くという作業が可能になった ⇒ 専門家の間でさえも、一方にとって疑いえない事実が他方にとっては決してそうではないということにしばしば気づかされ、先入観なく比較史研究を実践しようとする者の言説においてさえ、そこには必ずしも自覚することなく国民的伝統に起源をもつ概念や確信が入り込んでしまい、分析に影響を与えることがあるところから、より明確な比較の観点の下で議論を精緻なものにすることができた



第1部       なぜ仏独戦争なのか?
容易に確定し得る真の原因があったかどうかは確かではないが、宿命的なものであり、特に1870年の普仏戦争以降、仏独の新たな衝突はいずれ起こらざるを得ないであろうという想定は、記憶の中に残っていた
1871年の敗北以来フランスの精神状況は、「ドイツに対する復讐」とアルザス・ロレーヌを必ず奪回するという観念によって支配されていた、と考えられてきたが本当だったのか?

第1章       世紀転換期におけるフランスとドイツの世論
普仏戦争後のビスマルクの強圧的態度は、戦後急速に復興するフランスに対する牽制の糸だけだったが、フランスにとってはドイツが再度戦争を仕掛けるという意志として受け止められた
近年漸く、フランスに復讐の意志があったということは疑問視されている ⇒ 71年の敗北後の最初の選挙は、王党派が共和派に勝利したが、王党派は和平を主張し、共和派は戦争の継続を訴えた。77年以降は共和派が政権を取ったが、戦争を求める声は全くといってよいほどなかった ⇒ 80年代後半にはドイツへの復讐を叫ぶ「復讐将軍」ブーランジェが軍部や右翼の支持を得て独裁政権を作ろうとしたが失敗している
20世紀初頭のフランス政治を支配していたのは、1902年と06年の選挙に勝った急進党 ⇒ 中間層の政党で、愛国的ではあったが、平和志向
ドイツでは、今日でもなお多くの歴史家が「戦争屋ポワンカレ」の言葉に象徴されるように1914年以前のフランスの復讐心の存在について確信している。ボナパルティズムが再び目を覚まし、多大な犠牲を代償に遅ればせながら獲得したドイツの統一に対し、フランスが改めて異議を申し立てるのではないかという恐怖がドイツ側にはあったのは事実 ⇒ ナポレオンがストラスブール(アルザス・ロレーヌの中心都市)から出発してドイツを2つに分断したことから、ドイツにとってはストラスブールの軍事的重要性が高く、ストラスブールがドイツのものとならない限り、枕を高くして眠れないと考えていた
1894年 ドレフュス事件  対独スパイとしてユダヤ人砲兵大尉ドレフュスが逮捕されたものの、証拠がないままに勾留されている間に反ユダヤ系の新聞が売国奴を軍が匿っているとすっぱ抜いたために、軍部が慌てて有罪の判決を下したもの。のちに冤罪と判明したが、軍はもみ消した
ドイツ全体の世論としては、人口の停滞に面したフランスの没落の進行を尻目に、ヴィルヘルム2世の下での「世界政策」を支援、先ずはイギリスに匹敵する海軍の発展に邁進
フランス外相デルカッセの時代(在任:18981905) ⇒ 最大の関心は植民地政策にあり、そのために対独接近するも、アフリカでのイギリスとの衝突となったファショダ事件では屈辱を味わった後、地中海におけるフランスの立場の強化をめざしモロッコに関し英国との植民地協定を締結(1904年、エジプトにおけるイギリスの権益と、モロッコにおけるフランスの権益を相互に承認する) ⇒ フランスはドイツを排除する積りはなかったが、イギリスは増大するドイツの海軍力を脅威と見て、英仏協商によってドイツを封じ込めようとした
1905年 タンジール事件(1次モロッコ事件) ⇒ ドイツは、モロッコをカリフ国家(イスラム教指導者の支配する国)と見ており、英仏協商に異議を唱えてアルヘシラス会議に持ち込むが、改めてモロッコにおけるフランスとスペインの利害が最優先されることを列強が公式に承認、ドイツの目論見は外れたが、デルカッセの外相の座からの罷免を要求 ⇒ デルカッセが対独強硬派に転換
ドイツは、マンネスマンのモロッコ南部での鉄鉱石採掘利権を無視してでも対仏宥和に向かう
フランス首相クレマンソー就任(在任:19061909191720) ⇒ デルカッセを個人的、政治的に嫌っており、デルカッセの外交政策を「危険」と考えていた
1905年が戦争への歩みの始まった年 ⇒ 平和が習慣だった空気が転換。イギリスやロシアと同盟を結んだフランスが、大国としての自我に目覚めた ⇒ ドイツにとっては、英仏露に「包囲された」という認識 ⇒ 第1次大戦でドイツ国民が抱いた確信、即ち自分たちは「防衛戦争」を戦うという考えの遠因になっている(ドイツ皇帝が開戦時、「敵対者に溢れた世界」に対する闘いといっている)

第2章       1911年以降の仏独関係の悪化
1911年 アガディール危機(2次モロッコ事件) ⇒ モロッコの内乱に対し出兵したフランスに対し、ドイツがマンネスマンの権益擁護を口実に大西洋岸に戦艦を派遣、一触即発の危機となったが、イギリスの介入もあってフランスによるコンゴの一部を割譲と引き換えに、モロッコを正式にフランス領と認めて収まったものの、大戦の前哨戦と見做されている ⇒ 講和の結果が両国のナショナリズムを激しく昂揚させた
191213年 第1次第2次バルカン戦争 ⇒ ボスフォラス・ダーダネルス海峡における特権をオスマン・トルコに認めさせようとして、ロシアがマケドニアを中心とするトルコのヨーロッパにおける領土を奪取しようとしていたセルビア・ブルガリア・ギリシャ・のバルカン同盟を後援、最終はブカレスト条約においてセルビアとギリシャがマケドニアを山分けし、ブルガリアはトラキアの一部を獲得。セルビアがアドリア海に達することに強く反対したオーストリア=ハンガリーはアルバニアを創出するよう仕向け、セルビアはアルバニア領から撤兵を余儀なくされ、長期間抑え込まれる結果に ⇒ 露仏同盟の強化を画策していた仏首相ポアンカレは、積極的にロシアに肩入れし、彼等がドイツ方面への陸路輸送の増強を目的とする鉄道路線の建設のための巨大借款を行うも、鉄道は建設されず。一方で、個人的にドイツへの復讐を企図するデルカッセが駐露大使に任命され、ロシアに対独を意識した積極的な軍備増強を働きかけ
ドイツ人の将軍がトルコ軍の指導的地位に就任したことも、仏露は不満を表明
ドイツの戦争計画 ⇒ 主要な敵はロシア。汎スラヴ主義こそがヨーロッパの勢力均衡を破壊する活発な原動力だと見做し、トルコの敗北に危機感を持ち兵力増強
フランスの計画 ⇒ 兵役義務を2年から3年に延長、賛否激突したが、ドイツの潜在的脅威論が勝つ ⇒ 「戦争の危機」の存在が煽られた

第3章       19147月の危機
19147月の危機 ⇒ 当初両国に関係のなかったこの危機をなぜ克服できなかったのか
対セルビア強硬派のオーストリア皇太子がセルビア人学生に暗殺されたことは、ニュースではあっても、ヨーロッパの平和を危機に陥れるものとは見られていなかった
ドイツでは皇帝が、オーストリア=ハンガリ―帝国に対し支援のための白地手形を出したが、あくまで局地戦として、すぐに解決されることを期待していた
予想外のロシアの動員が戦争の引き金を引いたのは否定できない ⇒ ドイツの、先延ばしにするよりは今決着をつけるという思考こそ危機破局における最大の責任だが、各国ともロシアの動員に連鎖的に反応した結果、突発的に大戦となったもので、誰も長期的に計画していたわけではなかった
ドイツの責任 ⇒ サレエボ事件をロシアの意思を試すために利用しようとしたところもあって、当初は君主制国家としての連帯感から、オーストリア=ハンガリ―がセルビアのテロリストを懲罰することを黙認するとみていたが、セルビア支持で戦争の危険を冒すようであれば、まだ準備のできていないロシアに先手を打って叩く格好の口実になると考えた
ドイツ政府のあまりにマキャベリ的で、宿命論的な外交が袋小路にはまり込んだもので、独墺同盟の落とし穴に嵌った ⇒ 早期かつ局地戦での決着を目指すドイツに対し、オーストリア=ハンガリ―は結局決定を先延ばしにして危機を拡大させた
他方のフランスは、まったくの受動的立場にあり、指導者たちも危機の深刻さを認識していなかった ⇒ 事件直後にポアンカレ大統領が首相とともにロシアを訪問、オーストリア=ハンガリ―による対セルビア宣戦布告の際は帰路の洋上にあったが、別れの挨拶でロシアに対するフランスの支持を確約、意図せざる形でロシアの行動に白紙委任を与えたのは、大戦の引き金となった直後のロシアの動員を考えるとロシアとの同盟の落とし穴にはまったといえる

第2部       国民間の戦争?
もし世論調査が存在していたら、両国民とも大部分が戦争を望んでいないと答えたであろう
想定外に4年の長きにわたり、どちらの陣営でも決定的な士気の低下がみられなかったのは第1次世界大戦の謎
第4章       フランスの「神聖なる団結」とドイツの「城内平和」
開戦に際してのポアンカレの議会教書 ⇒ フランスの「神聖なる団結」は何ものによっても破壊できない。我々は、侵略者に対する共通の怒りと愛国心によって兄弟のごとく一体となっている
歴史上異例ともいえる団結への呼びかけに対し、国民が一致して応えた
平和主義者と見做されていた「左派」や、あらゆる戦争に反対していたサンディカリストの動きは、政府の動員令決定とともにストップ
反カトリック教権派の強いフランスであれば、「神聖なる」とのカトリック的呼びかけへの反発も強く、その敵対者との間の根深い分裂を埋めるものではなかったが、社会主義者たちも緊急事態であることを理由に、第二インターが禁じていた「ブルジョア政府」へ参画した
「団結」そのものは戦後しばらくたってからの表現で、当時は「政党間の(短期)休戦」だった
ドイツの「城内平和」 ⇒ 中世以来、共同体防衛のため、城内での係争や闘争を禁ずるもので、今回も議論されることもなく立ち現れ、自発的かつ予想外の「国民の一致団結」という奇跡を誇りとした(8月の体験」ともいう。ナチ体制下では「民族共同体」によって再現しようとした)
かかる意識の下で、ドイツ政府は容易に、ロシアこそ侵略者だと示すことが出来た
ただし、社会主義者や少数派カトリック等との対立は一時的に隠蔽されていたに過ぎなかった

第5章       戦争の試練に立つ政治体制
両国内の団結は、短期間での決着を前提としたもの ⇒ 戦争の長期化に伴い、矛盾が噴出
フランスでは、戦争目的は政府が決めるが、作戦実行の権限は軍司令部に一任 ⇒ 戒厳令が敷かれ、軍部が全権を掌握。議員が軍務から免除されていないため、開戦当初は議会が正常に機能せず、機能を回復し文民が軍部の優位に立つのはクレマンソーが首相に返り咲いた1917年後半になってから。クレマンソーは議会に出席し、議会も彼の決定に対し支持を与えた
ドイツの場合は、戦時の行政権が25に分かれた軍管区に委ねられ、各司令官は直接皇帝に対してのみ責任を負うことになっており、それらが統一されたのは1810月になってから

第6章       「神聖なる団結」と「城内平和」の変容
フランスでは、社会主義者が当初は「団結」を支持していたが、長期化とともに戦争終結に向けた動きとなり、さらに天敵だったクレマンソーの首相就任により「団結」にも亀裂が見え始めたが、労働者大衆における愛国心が予想以上に強く、終戦まで「団結」との真の断絶は存在しなかった
ドイツでも、大多数のドイツ人にとって、すでに大量の人的、物的犠牲をもたらした戦争は勝利によって終わらなければならないという信念が揺らぐことはなかった

第7章       メンタリティーと「戦争文化」
フランスでは、子供教育が戦争の観点から特に攻撃的に書き換えられ、彼等の愛国的信念の涵養が図られた
 
第8章       士気とその動揺
ドイツの死者は2,307千人に対し、フランスは1,327千人
開戦直後の数か月の死傷率がとりわけ高い
ドイツは、イギリスによる海上封鎖のために、物資の欠乏がひどく、インフレが進む
長期化とともに、反戦の動きも活発化 ⇒ フランスではストライキが活発化したが、そのために愛国心が失われることはなかった
ドイツでは、17年ごろから深刻な士気の低下がみられ、皇帝も選挙制度や他の改革のやり直しを約束して人心の安定を狙ったが、その中で重要なのは16年末の労働組合の承認 ⇒ 戦争末期のストライキ頻発となって政治状況に深刻な影響を及ぼし、1811月の革命へと繋がる

第3部       前代未聞の暴力を伴う戦争?
第9章       人間の動員
フランスでは、ナポレオン以降徴兵制を導入したが、くじ運の悪かった者が長期兵役に服したり、金で雇った代理人を立てることも認められたため、多くの者にとっては軍はまだ職業人、特に農村から多くが徴募され、総数も普仏戦争当時は30万人強だった ⇒ 第三共和制の課題は本来の意味で国民的な軍隊を構築することにあり、開戦前には全国民を対象とした徴兵制が出来上がり、88万人の配備を含め動員総数は3,781千人(予備役を含めた徴兵期間は28)、戦争の全期間を通じて8.4百万人が動員された(総人口39百万の21.5)
ドイツの徴兵は領邦国家ごとに行われたが、段階的に国民全体の兵役からなる軍隊へと移行。召集は総人口の1%とされた。フランスとの違いは、軍が皇帝の「統帥権」下に置かれ、議会や文民権力の制約を受けなかった点にあり。開戦時の動員可能総数は4.9百万人、全期間を通じて動員した兵力は13百万人(総人口67百万の19.4)

第10章   産業の動員
必要物資の生産と輸送が喫緊の課題
フランス軍は、戦前170台の自動車しか保有していなかったが、終戦時には170千台使用
新しい武器としての軍用機はフランスだけで52千機、95千台のエンジンが製造された
戦車も開戦時には存在していなかった
フランスは、海上輸送の自由が必要原料の確保を可能にした
労働力としては女性が動員された
新設の軍需省の下、「想定外」の需要に対し、驚くべき柔軟さで「想定外」の能力を発揮した
必要資金は、国民に抵抗の強い増税ではなく、債券発行(フランス国民の貯蓄率は高かった)や外国からの借款(アメリカの銀行団が資金源で、アメリカの製品を購入するために使われたケースが多い)、さらにはフランス銀行からの前貸金で賄われた
当時はまだインフレという用語もなければ、長期的なインフレ減少に結びつくとは考えられておらず、フランスの自国通貨への信頼によって調達することが可能だった
終戦時フランスの短期負債額は1000億フラン
開戦時は通貨量の69.4%が金準備によってカバーされていたが、終戦時は21.5%に激減
ドイツも同じ様な状況だったが、イギリスの海上封鎖の影響がすぐに現れ、急遽原料統制の会社が出来たが、軍需生産の60%は民間企業が、また銃器の生産は完全に民間企業に委ねられ、戦争需要が産業界に莫大な利益をもたらす
戦費の調達については、他国同様金本位制の放棄とともに、新たな直接税は行わずに、個人の保有する金を国債と交換、長期国債が大量に発行された ⇒ 終戦時、予算支出のうち税収でカバーされていたのは14%に過ぎなかった
戦時社会の最も顕著な発展の1つは、フランス同様女性労働の飛躍的な増加 ⇒ 繊維産業から金属・化学産業へのシフト
両国における産業の途方もない規模の動員によって、戦争の暴力は激化したといえる

第11章   戦場の暴力
大戦の根本的な特徴 ⇒ 兵器の戦争であり、大砲が主役となった結果としての戦争の暴力化
初めて死が匿名になった
負傷者の数もさることながら、負傷の多様さと深刻さは従来の比ではなかった ⇒ 砲弾の炸裂による顔面負傷の急増 ⇒ シェルショック(砲弾ショック/戦争神経症)
兵士というより「殺人者」としての行動を強いられる精神的苦痛 ⇒ 塹壕掃討兵/掃討用武器
究極の暴力は、原則禁止だったが、恐怖心を掻き立てる効果を発揮した化学兵器の登場 ⇒ 最初に使用したのは19154月イーブルでのドイツ軍。開発したのは「化学兵器の父」とも呼ばれるドイツのフリッツ・ハーバーで、18年にアンモニアについての業績でノーベル賞受賞。9月にはフランス軍も使用したが、敵陣を汚染すると自分たちも前進できなくなることから使用は限定的に留まった
毒ガス被害者の精神的・肉体的後遺症は、他の比ではなく、使用された武器が桁外れの暴力を引き起こした

第12章   民間人に対する暴力
1907年のハーグ国際会議にて、都市の空爆や無防備都市への砲撃は禁止され、非戦闘員は戦争の埒外に置かれるべきことを明確に示している
1次大戦における民間人犠牲者の第1号は、1914年にオーストリア=ハンガリ―がセルビアに侵攻した際の残虐行為で、戦争の責任者に対する報復という口実の下に行われた
ドイツ軍がベルギーとフランス北部に侵攻した際の略奪や残虐行為、ロシアが東プロイセンに侵攻した際の略奪等枚挙に暇がない
野蛮行為として告発されたものもあった ⇒ ドイツ軍による撤退途上でのランスの大聖堂に対する執拗な砲撃で、中立国の多くの人々を憤慨させたばかりか、これを契機にアメリカ世論がドイツに対して背を向け始めた
戦争の暴力化の要因は、以下3つの相互作用
   国民理念の進展 ⇒ 大衆の戦争と化し、戦争の総力化を引き起こした
   化学兵器の使用や都市への空爆のような違反が明白に存在
   敵を倒すという意志が、全国民によって高いレベルに押し上げられた

第4部       なぜかくも長期戦になったのか?
短期戦であることは誰もが一致していたにもかかわらず長期化した理由とは
第13章   神話となった短期戦
緒戦のフランス軍の大敗は、原則と訓練、情報の欠如によるものだったが、一旦フランス政府はパリからボルドーに退き、予備役の動員により息を吹き返し、ベルギーから一気にパリに進撃しながら直前で方向転換したドイツ軍をマルヌの会戦(96)で撃破 ⇒ お互いに戦前の戦争計画が挫折し、泥沼の塹壕戦に突入

第14章   勢力均衡
西部戦線で敗北を喫したドイツ軍は、タンネンベルクの戦いでロシア軍を破ったが、翌年3月にはオーストリア=ハンガリ―がロシアに降伏したため、ドイツ軍が介入して押し戻すことに成功、ロシア領ポーランドの大部分を奪取したが、東部戦線でもそのあとは膠着 ⇒ 二正面作戦はやらないという鉄則を破った報い
フランスは、次第に増強されたイギリスの援軍と、国内の志願兵の殺到で兵力を前線に配置
塹壕の戦争は1914年の戦争の象徴だが、特にフランス側は永続的なものとみていなかったため、塹壕が凡庸 ⇒ 平地での機動戦に挑んだが、一進一退
19162月 ヴェルダンの戦い ⇒ ヴェルダンは20の防塞と40の防御堡塁からなるフランスの最も強力な要塞化した陣地。ソンムの戦いとともに、最大の戦闘であり、歴史上全ての戦争の中でも最大。局面打開を期したドイツがフランスの象徴を奪回しようと仕掛けたが消耗戦となり、フランスのペタン将軍によって撃退された。両軍合わせて70万の戦死傷・行方不明者を出す。
19167月 ソンムの戦い ⇒ 連合軍側の全戦線での総攻撃開始の合意に基づき、イギリス軍が主体となってドイツに攻撃を仕掛けたもの。4か月間で仏20(うち死者10)、英42万、独50(うち死者15)の犠牲
2つの戦の損害の責任を取って両国の最高司令官は更迭 ⇒ ドイツは、タンネンベルクの英雄コンビだったヒンデンブルクとルーデンドルフ(参謀長)が登場、人的資源の劣勢を兵器の量でカバーしようとした。歩兵大隊は「突撃大隊」へと改編
フランスでもジョッフルが元帥に祭り上げられ、守備的なペタンより近代的戦法の信奉者だったニヴェルが任命
1916年春 フランス軍に反乱が広がる ⇒ 戦争に対する抗議ではなく、無為に大量に戦死させられるそのやり方に対して抗議したもの。西欧3大国の軍隊の中では唯一のこと
4大国以外の動き
オスマン帝国(トルコ) ⇒ 最初にドイツ側に立って参戦、スルタンは「聖戦」とまで叫んだ。協商国もトルコに宣戦、ロシアとの連絡を密接化を狙ってボスフォラスとダーダネルス海峡の占拠を目論むが、ドイツ人将校に指揮された頑健なトルコ軍に阻まれ、膠着状態に
ブルガリアは、ルーマニア同様当初中立を宣言していたが、バルカン戦争で「大ブルガリア」建設の願いが挫折していたこともあって、ドイツからセルビア領土の割譲を持ちかけられ、19159月中欧諸国(独墺)の陣営で参戦 ⇒ 世論は親露的で、ロシア革命後は深刻な反乱が生じ、兵士たちも戦争離脱を要求。ドイツは、ブルガリアの厖大な穀物と他の農作物、鉄鉱石を期待したが、得た物はタバコ程度
ルーマニアは、当初両サイドに分裂していたため中立を維持していたが、19168月オーストリア=ハンガリ―から領土の一部を奪還して「大ルーマニア」の夢が実現しそうになったところで協商国との間に協定締結 ⇒ ドイツがすぐに宣戦布告、ブカレストは簡単に陥落したが、フランスの支援で戦線は膠着。ルーマニアは、戦前世界レベルで最も穀物輸出の多い国の1つ、さらにドイツがルーマニアの石油資源を利用できるようになったことが戦争継続にとって極めて重要
イタリアは、1882年以来独墺と共に3国同盟の一員だったが、左翼がフランス軍に志願したうえに、フランスからトリエステからアドリア海に至る広い地域を約束されて、19154月連合国側と秘密条約調印。チロルの山岳地帯でオーストリア=ハンガリ―との戦闘が始まったが、ここでも膠着状態に
戦争は地理的に拡大したが、両陣営の均衡が変化することはなかった

第15章   講和の試み
最初に交渉を申し出たのはドイツ ⇒ 知識人や左翼の強い声に押されて検討開始、「講和の決議」を議会にも上程。ただ、主張したのは、「侵略計画はなく、領土全体の維持のために武器を取った」といいながら、要求した内容はドイツにとって都合の良いものだったのは当然
フランスの一貫した唯一の要求は、アルザス・ロレーヌの回復であり、これだけは譲れなかったが、ドイツにとっても古くからのゲルマンの土地と見做していて受け入れがたかったため、同地域における自治の実現や中立化が検討された
1916.12.ドイツの提案、 1917.3. オーストリア=ハンガリ―皇帝のイニシアチヴでの打診、外交官レベルでの接触等の動きが具体化したが、お互いの不信感は拭えず。1918.11.の休戦提案についても同様だった
フランス側では、勝利か敗北かのいずれによってしか戦争は終わらないという空気が支配的、ドイツでも右翼の怒りが爆発して、議会に提案した宰相は辞任

第5部       やぶれた均衡
情勢の変化が直ちに戦況変化に繋がったわけではなく、徐々に現れていった
第16章   ドイツ優位への均衡解消
無制限潜水艦(Uボート)作戦の成功 ⇒ 開戦当初潜水艦は出来て間もない頃でほとんど注目されていなかったが、15年初めごろから敵艦船を合法的に沈め始めた。その中で155月イギリス客船ルシタニア号を撃沈、アメリカ人128人を含む1100人の乗客が死亡、「野蛮な行為」として見做され、連合軍側の宣伝に利用。アメリカの要求によって、一旦ドイツ政府も攻撃目標をイギリス軍向け増援物資の輸送船に制限したが、イギリスの海上封鎖の影響が深刻化したドイツが172月より無制限活用を開始 ⇒ アメリカとの外交関係断絶と4月のアメリカ参戦に至るが、ドイツとしては数か月でイギリスを戦争から離脱させれば、アメリカ軍の介入準備が整う前に戦争が集結するという読みだった
1917年のロシア革命 ⇒ ペトログラードでの2月革命は武器を持たない民間人に発砲することを拒否したペトログラード守備隊の一部の反乱によるところが大きく、ほとんど完全に自然発生的なもの。戦争からの離脱は意味せず。フランスもロシアの革命には好意的(非民主的だったロシアの同盟国であることは、民主主義のための戦いを掲げていた協商国にとっては具合が悪かったし、ロシア皇帝の側近の中に感じられたドイツの影響力にも革命によって終止符が打たれた)。ロシアでは、戦時中から兵士の脱走が増え続け、革命とともに戦意がさらに低下、革命政府も全交戦国に「無併合無賠償の即時講和」を提案するが、何の反応もなかったために、ドイツとの交渉を開始。ドイツにとっては、じきに戦線から離脱すれば二正面作戦からの解放に繋がるところから、独露の秘密交渉が行われ、同年12月オーストリア、ブルガリア、トルコも巻き込んで休戦締結、トロツキーが戦争状態の終結とロシア軍の武装解除を一方的に宣言したため、ドイツ軍がロシアに侵攻、ロシアも無条件で降伏し3月ブレスト・リトフスク講和条約調印 ⇒ バルト3国とポーランド、ウクライナ、フィンランドのドイツ監督下での独立、ブルガリア・トルコは黒海沿岸とコーカサスに領土獲得
ロシアの崩壊が軍事的バランスをドイツ軍優位に傾かせ、ドイツは西部戦線に集中できた

潜水艦作戦の失敗 ⇒ イギリスが、軍艦に守られた船団を編成することにより、装備する魚雷の数が少ない潜水艦は、攻撃した途端に軍艦から追われる身となり、撃沈数は急激に減少
アメリカの参戦 ⇒ 161月に再選されたウィルソンは、「ルシタニア号の悲劇はウィルソンの下劣な臆病さと弱腰に帰すべき」というルーズベルト元大統領の侮辱的発言にも拘らず、ヨーロッパ諸国に「勝利なき平和」を呼びかけ、ドイツに対しても国交断絶による警告で足りると考えていたが、ドイツがアメリカの一部割譲を見返りにメキシコを同盟に引き入れようとしたのが露見して、アメリカ世論が激しく反発した時に、漸くウィルソンも参戦を決意
早速志願兵を募集したが70万の期待に対し応募は4355人のみ、徴兵制に切り替え、176月に第1陣を派遣(5か月で8万人のみ)。同年末には4百万人を動員するまでに
1918年春ドイツの攻勢 ⇒ パリ爆撃もあって、一時は勝利が確実というところまで行ったが、増援も物資も補給も途絶え勝ちで、軍の士気も急激に低下。一方、連合国側は大量のアメリカ兵の到着を当てにすることが出来、均衡は連合軍有利に破られた(71日アメリカ兵785千人の到着で勢力逆転。ドイツ軍3,576千に対し連合軍4,002)

第17章   勝利と講和
189月 連合軍の総攻撃開始 ⇒ ドイツ軍にはない航空機と戦車によって圧倒
11月 休戦協定 ⇒ 9月にブルガリアが連合軍と、10月にはオスマン帝国がイギリスとの間で休戦協定に調印、オーストリア=ハンガリ―も11月にイタリアと調印、ドイツの休戦要求は10月初めアメリカ大統領宛に送られる
ドイツでは、皇帝と右翼政党が憲法改正に同意し、「議会制的」政治体制を受け入れ、宰相は議会の「信任」を必要とし、司令部は帝国宰相の決定に従うこととなった ⇒ 18.9.議会で選ばれた最初の宰相バーデン公マクシミリアン(マックス)が、帝国の絶滅と無駄な犠牲の拡大を恐れて不承不承休戦要請発出に同意 ⇒ ベルギーの解放とブレスト・リトフスク条約の取り消しを約束
ドイツ各地で社会主義革命が勃発、皇帝はオランダに亡命、民衆は、ヒンデンブルクの「軍は負けずに戦争を終えた」という言葉に騙され、「敗北感」はなく政府と軍の裏切りに茫然
ウィルソンは、自分宛の休戦要請を、他の連合国と相談せず、ドイツ政府を自らの望むように導いた後で(プロイセンの特権階級ではなく、議会制政府との交渉しか認めなかった)休戦協定を結び、ドイツも18.1.のウィルソンの表明した14か条に基づいて受諾
フランス世論は、ドイツの休戦提案に驚き、罠だという人と歓迎する人に分かれた
1919.1. ドイツに宣戦布告したすべての国がパリに召集され、講和会議開催 ⇒ ドイツの出席は想定されず。ウィルソンの構想する「勝利なき講和」と、フランスの主張する再発防止への保証、即ち戦争責任のあるドイツへの厳しい措置の妥協点をどこに見出すかの駆け引き
アルザス・ロレーヌは休戦協定の段階でフランスに復帰していたが、それ以外の領土の分割や、オーストリア=ハンガリー帝国解体後のオーストリアとボヘミアのドイツ人の処遇(オーストリアではドイツへの併合を求める運動があり、民族自決権には適合したがフランスは絶対反対)等の争点での妥協の結果、ヴェルサイユ条約が成立 ⇒ ウィルソンとクレマンソーの歩み寄りの成果
ウィルソンは、国際連盟の創設と、民族自決権の宣言(ドイツとその同盟国は埒外)で満足
ドイツの見解は却下され、国際社会からの爪弾きに加え、高額の戦争被害賠償金(1320億金マルク)が付加され、1871年ドイツ帝国が宣言された同じ宮殿鏡の間で調印されたという屈辱まで加えられた
「人類史上最大の犯罪」として告発されたドイツは激しく反発したが、連合軍部隊によるドイツ侵攻の準備が出来ていることを知って受諾せざるを得なかった
フランスではポアンカレ大統領は反対したが、議会は圧倒的多数で批准

第18章   戦後
戦争の全期間を通してフランスでもっともよく守られた秘密の1つが、損失の大きさ ⇒ 戦死者数総計は1,383千人、厖大な物質的破壊、精神的苦痛(兵士の家族の待つ苦しみやシェルショック:11章参照)。長年人口停滞の国だけに堪えがたい犠牲
フランスの戦争費用 ⇒ 軍事的出費、物質的出費、兵士の維持費、動員兵士家族手当の合計は1400億金フラン(通常の年間軍事費は90)。フランスがほとんど支払わなかった350億の連合国間の負債と実際に払い込まれた賠償金90億を差し引いた残りは800億で、通常の年間予算の16年分
ドイツの犠牲 ⇒ 2百万近くの死者、4百万以上の負傷者。13%と5.5百万の国土・人口の喪失。7百万兵士の復員も大問題
国際連盟の創設は、別のヨーロッパ秩序の出発点
フランスでは分裂症の進行 ⇒ ボリシェヴィズムへの対応も含めた対外的な干渉を繰り返す一方、次第に広く平和主義が浸透
1919年の議会制によって誕生したドイツのヴァイマール共和国 ⇒ 整然とした復員から始める。ヴェルサイユで認められた国防軍は10万だったが、影の国防軍のようにいろいろな形で予備人員として残った。ドイツの戦争責任を認めた「恥辱の」ヴェルサイユ条約に対する政治的過激化と、敗北の「張本人」の名指し(共産主義者の騒擾によるもの)は、極度の二極化と右翼の伸張をもたらす ⇒ 1922年連合国が決定した賠償金額1320億マルクを、軍事占領と国土の分断回避のために受諾した政府への不満の爆発は、外務大臣ラーテナウの暗殺を引き起こす ⇒ 23年にはフランスとベルギー軍が、賠償支払い回避の口実を見つけたドイツへの報復としてルールを占領、正真正銘の軍事行動に限りなく近いもの

むすびにかえて
1次大戦はヨーロッパ戦争だが、内戦とは違う ⇒ 戦い合う国民の間に親近性は存在せず、人々は祖国のため、自身の生存のため、自分たちの将来のために戦ったし、とりわけ独仏では「市民」戦争や、単一のヨーロッパ人の中での内戦という要素は何もなかった
戦争に勝ったフランスといえど、払った犠牲はとても結果と釣り合うものではなく、また同じような戦争を繰り返してしまうかもしれないという思いは圧倒的多数にとって堪え難いことだった
負けたドイツにとって、最も重要だったのが、不公正、かくも多くの死傷者を出した後の敗北の不公正、とりわけ戦闘を終結させた条約の堪えがたい不公正さに対する思い。自分たちは祖国を守るために戦ったと思っているのに、破局の責任者と見做されることをどうして受け入れることが出来ようか
フランス人にとっての第1次大戦を、単に普仏戦争の復讐だったとすれば、今度はドイツが復讐する番ということは必ずしも当てはまらない。ドイツ共和国がヴェルサイユを拒否しようとした失敗とナチスの勝利が不可避的に新たな仏独対決へと導いていった
1次大戦の教訓は、第2次大戦の経験を通して初めて、独仏両国民にとって真の意味を持った ⇒ 彼等の将来は、和解と共通点の強調の中にこそあり、憎悪と差異の中からは何も生み出さず、共通の器としてのヨーロッパの建設の中にこそある


訳者解説
1次大戦をどう呼ぶかは、すぐれて政治的であると同時に、記憶のあり方を方向付ける
広く「第1次世界大戦」と呼ばれるようになったのは、第2次大戦が始まってから
「世界戦争」という名称は、もっぱら米独によって使用された ⇒ アメリカは参戦の根拠を「世界」平和の実現に求めたからであり、ドイツはこの戦争に「世界」強国としての自らの運命がかかっていた
英仏では、長らく本書の原題のとおり「大戦争Grande Guerre/Great War」の方が一般的
ドイツ語の翻訳でも、『大戦争――第1次大戦におけるドイツとフランス』と言い換えられている ⇒ 大戦争といっても、あくまで戦後になってからの呼び名であり、総力戦という性格付けも同様
大戦研究には3つの波 ⇒ アプローチの重点も変化
   1920年代から30年代 ⇒ 伝統的な外交史。軍事史が中心
   1960年代 ⇒ 第1次と第2次大戦の共通点に関心。「社会史」アプローチ
   1990年代以降 ⇒ 「文化史」アプローチ。国際共同研究と比較史の進展
1992年フランスのペロンヌに大戦歴史博物館設立 ⇒ 英仏独3国の戦前・戦中・戦後における国民、兵士、銃後の社会が、社会史的、文化史的視点から、3国対等の形で展示
1次大戦を巡る最も激しい論争は、フランス国内において行われているもので、「文化史」に関するもの ⇒ とりわけ大きな論点は、兵士たちはなぜ想像を絶する劣悪な生活条件だった戦場で4年間を堪えることが出来たのかという問題



仏独共同通史第一次世界大戦 []J・J・ベッケール、G・クルマイヒ
[評者]保阪正康(ノンフィクション作家)  [掲載]朝日新聞 20120513  
[ジャンル]歴史 
対立の錯誤を明かす実験の書
 第一次世界大戦の分析には多様な論点がある。20世紀の科学技術による悲惨な戦争、帝国解体に至るナショナリズムの勃興、各国間の領土をめぐる対立、米国の台頭、共産主義体制の登場、どの視点からでも論は成りたつ。
 本書はこの大戦を仏独2大強国の戦争と捉え、両国の世代の異なる歴史家が共同執筆を試みた実験の書といえる。自分たちが重要な史実と理解しても相手側は異なる見方をしているとの差異に興味がもたれる。冒頭でも指摘されるが、普仏戦争以来、「復讐(ふくしゅう)心に満ちた」仏との見方がされてきたのは、双方の歴史観の歪(ゆが)みでもある。この誤断と現実政治の乖離(かいり)を見るのが本書を貫く軸にもなっていて、第一次大戦前からの両国の対立には歴史的な側面と人為的に煽(あお)られる感情とによる錯誤の増幅が窺(うかが)える。
 仏独の関係は20世紀に入るとモロッコ問題などをめぐって危機が昂(こう)じていき、1911年以降はきわめて険悪になった。独には露と英、露と仏の接近により包囲されているとの感情が強まるし、仏もまた独の軍事的奇襲を恐れて兵役の延長などを進める。しかし著者たちは、両国民の「大部分が戦争を望んでいないと答えたであろう」と分析したうえで、仏は「神聖なる団結」、独は「城内平和」という語に象徴されるように国内の団結を固めつつ、本心は戦争は避けたいとの意思を読みとっている。
 にもかかわらずひとたび戦争が始まってしまうと、両国は軍事力の総力を挙げて4年3カ月も戦い続ける。その間のヴェルダンやマルヌの戦い、さらには毒ガス使用、残虐行為、戦争文化などを論じながら、仏は独を、独は仏を「敵」としてどう見ていたかを解説する。戦時下では秘密にされたが、仏では毎日平均885人が死んでいたという。2人の歴史家の筆がこの戦争に苦しんだ「時代」を悼んでいることに気づかされる。
    
 剣持久木・西山暁義訳、岩波書店・各3360円/JeanJacques Becker 28年生。Gerd Krumeich 45年生。

仏独共同通史 第一次世界大戦(上・下) ジャン=ジャック・ベッケール、ゲルト・クルマイヒ著 歴史研究者が作り上げた共通認識

日本経済新聞 2012/4/29


 1914年7月28日にオーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦を布告していわゆる第1次世界大戦が始まってから百年が経過しようとしている。それを記念するかのように第1次世界大戦への関心が高まりを見せている。その時に当って、正に最前線で向かい合ったドイツとフランスの歴史研究者が共通の認識としての第1次世界大戦像を作り上げ、それが邦訳されて日本語で読めるようになったことは、大変うれしいことで訳者たちの労を多としたい。

 戦争において勝者になった国家と敗者になった国家の歴史家が共同作業で一つの歴史像を作るためには百年近い歳月を要したことになるが、その間にはその時々の関心を反映しながら、また研究の進展に伴って様々な第1次世界大戦論が蓄積されてきた。そうした知見を取り込んだ本書の内容は、戦争にいたる経緯、独仏両国で起きた政治休戦、総力戦体制への動員、耐え難い戦争を耐えるための仕掛けと心性、戦後の「記憶」に至るまで多岐にわたるものであるが、目配りが行き届き、一つの概説書としても成功している。
 そうした評価を前提にしたうえでなお疑問が残るのは、著者たちが第1次世界大戦を論じるのに独仏戦を機軸に置いたことである。それは、「第一次世界大戦は、世界戦争というよりはヨーロッパ戦争であり、その軸を形成していたのが仏独の対決であった」という著者たちの考えに基づくものである。しかし逆に仏独の共同作業だから第1次世界大戦を描くのに仏独戦が記述の中心になった、とも言えるのではないだろうか。仏独共同通史が「国民史」を超える試みだったとしても、それが遠慮を伴った二つの国民史の足し算の印象は免れない。
 それでもなお本書の著者たちが「一国史」の枠組みを超えて第1次世界大戦を描こうとしたことは貴重である。その背景には、第1次世界大戦とその後に起きた第2次世界大戦がドイツとフランスの双方に破壊をもたらしただけだという苦い教訓があり、また未来は共通の家としてのヨーロッパの建設にあるという認識がある。
(神戸大学教授 大津留厚)

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