メディチ家の黄昏  Harold Acton   2012.7.4.

2012.7.4. メディチ家の黄昏
The Last Medici  Original 1932Revised Edition 1958

著者 Harold Acton (190494) イギリスの著述家。美術品の収集家だったイギリス人の父と、シカゴの大銀行家の相続人だったアメリカ人の母の間にフィレンツェで生まれる。曽々祖父の兄は、ナポレオン戦争の時代にナポリ王国のフェルディナンド4世に仕え、陸海軍を指揮し後に宰相も務めたジョン・アクトン卿(17361811)。曽々祖父もナポリ王国の軍人。幼年期はイタリアで教育を受け、イートン校(ジョージ・オーウェルと同級)からオックスフォード大へ進学。哲学・政治学・経済学を履修。文学や美術に心酔するグループの中心として活動。在学中、イーヴリン・ウォーの『回想のブライズヘッド』の作中人物のモデルに。3237 北京大学で教鞭。第2次大戦中は空軍に参加、インドやスリランカで極東専門の情報担当将校として勤務。イタリア史を中心に生涯で30点近い著書がある。61年大英帝国3等勲爵士を、74年には同2等を得て「サー」の称号を与えられた。ハロルド家唯一の相続人だったが、同性愛者で子供がいなかったため、5億ドルの遺産のうち、最も価値の高いフィレンツェ郊外に15世紀に建てられた自らの生家はニューヨーク大学に寄贈され、現在は同大の海外研究施設になっている
本書とナポリのブルボン家の興亡を書いた2冊は、1719世紀のイタリアを扱った著作として現在でも高い評価

訳者 柴野均 1948年生まれ。信州大人文学部教授(イタリア近現代史)。東大大学院人文科学研究科修士課程修了。

発行日           2012.2.10. 印刷     2.25. 発行
発行所           白水社

コジモ・イル・ヴェッキオからロレンツォ・イル・マニフィコまでの3台のメディチ家の当主たちがフィレンツェ共和国を事実上支配していた15世紀に関する本は多い。それは華やかなルネサンスの文化が我々を惹きつけるから。半面、16世紀――トスカーナ大公国という君主制に移行してーー以降のメディチ家やフィレンツェを扱った著作は今でもそれほど多くない。メディチ家の断絶に至る過程を扱った先駆的な著作が本書。
1642年のコジモ3世の誕生から1737年の最後の大公ジャン・ガストーネの死、そして1743年のアンナ・マリーアの死に至るトスカーナ大公国とメディチ家の歴史を語り、1つの王朝が崩壊していく過程を描き出している。少なくともイタリアにおいては、未だ国家の諸制度が未整備な時代であり、国家は王朝の所有物であって君主の資質や行動が大きな影響をもたらす時代であった。したがって、王朝の歴史を追うことがその国の歴史を叙述することになる。

1642年 第5代トスカーナ公国フェルディナンド2世に世継ぎコジモ3世誕生 ⇒ 3度目の正直で生き延びる
同年 トスカーナの偉大な科学者ガリレオ死去
17世紀前半のフィレンツェの生活を特徴づけていたのは、甚だしい陽気さとボヘミアニズムで、その時代最良の文学である諷刺詩、諷刺文を生み出した。全身全霊で「食べ、飲み、そしてゆっくり楽しめ。死んでしまえばもはや楽しみはないのだから」。そこから「ビスボッチャ」の爆発的な流行が生まれた。この言葉が意味していたのは、鯨飲馬食と欲望の求めに即座に応えることだった ⇒ その結果もたらされたのは、科学の発展に刺激された、総ての文化領域での湧きかえるような豊かな盛り上がり。音楽や絵画、ガリレオは広範囲にわたる刺激を科学研究にもたらす
フェルディナンドの弟ジャン・カルロ ⇒ スペイン海軍総司令官の後、政治的理由から34歳で枢機卿となるが、聖職者としての高い地位が楽しみを邪魔することはなかった
1659年ピレネ-の講和条約が調印され、ルイ14世がスペインの王女マリア・テレサと結婚 ⇒ ヨーロッパに平和が訪れたが、仏西の結びつきは政治的なバランスを狂わせる
61年 フェルディナンドは、ルイ13(母方の祖父はメディチ家の出)の弟の娘マルグリット・ルイーズ・ドルレアンを息子コジモの結婚相手とし、ルイ14世の保護の約束も取り付けるが、ルイーズはロレーヌ家のシャルル公に思いを寄せていたこともあってこの結婚に不満、事ごとにコジモにあたるし、社交の楽しみに慣れ親しんできたルイーズにとっては、フィレンツェは悲しく憂鬱な場所に見える
コジモの禁欲生活も、ルイーズの性格や浪費癖とは相容れず、あらゆることが彼等の幸福にマイナスに作用
1663年 男児誕生、フェルディナンドと名付ける ⇒ 後継者誕生で、夫婦の間は一層疎遠に、ルイーズはますますフランスへの帰心を募らせる
一旦和解して67年女児を出産、アンナ・マリーア・ルイーザと名付ける
1670年 大公フェルディナンドが卒中と水腫により死去、コジモ3世即位
フェルディナンドは、治世中にフィレンツェの諸美術館を著しく豊かにした。ヴィットリア・デッラ・ローヴェレとの結婚によってウルビーノからもたらされた財産も貴重
ルイ14世の従姉妹とコジモの縁組によって政治的な威信は高まったが、窮乏した財政状態を後に残した。フィレンツェのギルドだけが保持していた織物の染色、仕上げの技術をイギリスやオランダが我が物とし、さらに改良を加えて市場を席巻しようとしていた ⇒ フィレンツェの絹織物と毛織物工業は、1062年ウミリアーティ修道会の修道士たちによってもたらされ、あらゆる職業が細かく統制され、ギルドはその規約の中に自分たちの製造法を記録していた
嫁姑の対立 ⇒ ヴィットリアは権力の実質だけでは満足せずに華やかさも求め、古い伝統を復活させ、大公の私的な諮問機関である枢密院に出席、最初は子供の教育に没頭しているといったルイーズも出席を求め、なおかつ、ローヴェレ家の女性がフランス王家の王女と対等の立場になることはありえないと主張し出して、両者の対立が激化
71年 2番目の男児誕生、ジョヴァンニ・ガストーネと名付ける
74年 ルイーズは尼僧になる決心をし、コジモもルイ14世の監視の届くフランスの修道院ならと渋々同意、ルイも不本意ながら同意して、翌年パリ近郊モンマルトルの修道院に
妻を送り出した後のコジモの反応 ⇒ 豪華な饗宴、暴飲暴食振りが周囲の評価を下げる
ルイーズは、モンマルトルとパリの間を行き来するようになり、公の場にも顔を出すし、ルイもそれを放任、従者との浮名まで流れ、王族の結婚式には「フランス王家の娘たち」と同じように王族の長い裾を身に着けて出席し、コジモを苛立たせたが、ルイは却って、「自分の妻がフランスに帰還するのに同意した以上、その振る舞いに干渉するあらゆる権利を実質的に失った」として不快感を示した
1683年 トルコ軍がウィーンに迫る ⇒ 皇帝レオポルド1世が、教皇と全てのイタリアの君主に救援を求め、コジモもアルバニアに艦隊を派遣してトルコ撃退に貢献
大公位継承問題 ⇒ フェルディナンドは、母親のルイーズに助言を求め、反抗的な若者に育ち、あらゆる問題についてコジモと激しく対立
1689年 フェルディナンド(3)の結婚 ⇒ 相手はフランス王太子妃の妹でバイエルンのヴィオランテ・ベアトリーチェ公女(16)。ルイーズと正反対の敬虔で優しく飾り気のない、礼儀正しく従順な人柄で、すぐにフィレンツェの人々の共感と愛情を勝ち得たが、直前のヴェネツィア行きで贅沢三昧の生活を知った夫からは気に入られることはなかった ⇒ 結婚を祝う行事は、メディチ家につきものだった度外れた壮麗さの最後の輝き
フェルディナンドがアレッサンドロ・スカルラッティ(16601725)に関心を寄せ始めたのはこの頃 ⇒ プラトリーノに自身の舞台装置の設計で劇場を建て、そこで上演するオペラの作曲を依頼。スカルラッティの劇的な才能が花開いたが、それらの作品は完全に失われてしまった(劇場はフェルディナンドの死後閉鎖)
ルイーズの浪費をルイも支持したため、コジモはルイーズの膨大な負債の穴埋めの金策に手間取る
1691年 アンナ・マリーア公女結婚 ⇒ 相手はプファルツ選帝侯。ルイ14世の敵だったので反対されたが、コジモはフランスとオーストリアの両方への忠誠を誓う
1697年 ジャン・ガストーネ結婚 ⇒ 相手はザクセン=ラウエンブルク公の娘アンナ・マリア・フランチェスカで、娘1人の子持ち。ボヘミアでの政治的な地位を得ようとしたが失敗。結婚生活も、アンナが予想外に醜く、2人の生活習慣の違いもあって事実上破綻
1697年 ルイスウェイク条約締結 ⇒ ルイ14世と欧州連合との大同盟戦争の講和条約で、フランスがストラスブールを手に入れる。他方オーストリア皇帝のイタリア諸国への支配が強まり、フランスを凌ぐまでになり、高額の貢納金を要求
コジモは、世紀末の聖年(1700)の免罪と宗教的得点を受けるためにローマへの巡礼に出発、インノケンティウス12世から、ラテラーノ教会の聖堂参事会員という栄誉ある地位に任命される ⇒ 現世で達成した成功の頂点
1700年 インノケンティウス12世の死去に伴うコンクラーベの最中にスペイン・ハプスブルク家の最後の王カルロス2世が死去、王国をルイ14世の孫のアンジュー家のフィリップ(フェリペ5)に遺す。コジモの弟でメディチ家を代表して枢機卿だったフランチェスコ・マリーアはスペインとオーストリアの保護者だったが、後任の教皇に選ばれたクレメンス11世はフランスの政治的立場を支持
フェリペ5世の即位とともにスペインを牛耳ろうとするフランスに対抗して、英墺蘭が同盟を組んで立ち上がったもの、次第にスペインの内乱の様相を呈し、スペイン継承戦争と呼ばれる ⇒ まず、オーストリアがスペイン領だったミラノを奪取。戦闘は1713年ユトレヒト条約締結まで続き、最終的にフェリペ5世の即位承認
フェリペ5世は、フェルディナンドの妻ヴィオランテの甥ということもあって、コジモはフェリペの即位を承認、そのため神聖ローマ帝国皇帝(ハプスブルク)の反感を買って、皇帝はトスカーナを自分の物にしようと動き出す
おりしもコジモの後継者が、長男フェルディナンドはヴェネツィアでの放蕩が祟って梅毒に感染、次男ガストーネも泥酔状態で夢遊病の性癖があり精神錯乱の状態で後継の目処が立たないところから、コジモは弟フランチェスコ・マリーアの還俗を画策したが、歳の差婚からは何の成果も得られず、マリーアは結婚後2年もしないうちに1710年死去 ⇒ マリーアの死とともにメディチ家の歴史の一時代が終わる
メディチ家の断絶が避けられなくなって次の関心は誰がトスカーナを受け継ぐのか(初代トスカーナ大公コジモ1世も、晩年妻と息子2人をマラリアで失い退位して隠遁生活に入った) ⇒ 1532年神聖ローマ皇帝カール5世からアレッサンドロ・デ・メディチに与えられたトスカーナ公国は、アレッサンドロの暗殺後、首都フィレンツェの元老院がコジモ1世をトスカーナ公に選出、カール5世もこれを承認したが、フィレンツェは常に帝国からの独立を宣言し、メディチ家はトスカーナが皇帝の封土ではないと主張し続けた。主権はフィレンツェ市に戻ったうえで共和制となる可能性もあったが、コジモが自分とジャン・ガストーネが死んだ場合の後継者に選んだのは娘の選帝侯妃で、元老院も承認し、1713年のユトレヒト条約でも承認(ローマ皇帝は怒ったが、ルイ14世は賛成)
長男フェルディナンドは、最後の4年間癲癇から痴呆へと症状が進み、同年10月死去 ⇒ 最大の美術の後援者で、1705年にはフィレンツェで最初の公的な美術展を開催。特に音楽に造詣が深く、スカルラッティ父子や、ハープシコードを完璧なものとしてピアノを発明したといわれるクリストフォーリなどをフィレンツェに招いた。よい意味のディレッタント(好事家)
1715年 ルイ14世死去
1717年 プファルツ選帝侯死去に伴い、選帝侯妃がフィレンツェに戻る ⇒ 子供がなく、選帝侯位は弟のカール3世フィリップが継承
1721年 ルイーズ死去(享年76) ⇒ 遺言で自分の財産を遠縁の公女に贈り、死後までコジモとの間に争いの種を残す(実際にもコジモは訴訟で財産を取り戻す)
1723年 コジモ3世死去(享年81、在位53) ⇒ 最晩年はガストーネが摂政に復帰しており、そのまま大公位継承(当時52) ⇒ 不幸な結婚生活を酒で紛らわそうとしていたが、明らかに衰退する都市の立て直しのために課税を緩和したり死刑を廃止したり腕を振るうも、次第に孤独を求める性癖が強くなり、1729年以降は寝室に閉じ籠ったままとなる ⇒ やる気のなさや飲酒衝動から、在位中の功績が忘れられがちだが、大公国の莫大な負債は減少、税制の改正により貧農たちの状況は大幅に改善、貿易もわずかながら回復、ユダヤ人迫害を禁止、教会と国家を分離し国家を聖職者の専横から解放、教育面でも自由化しガリレオをたたえる厳かな儀式を行うことを許可
1735年 フランスとオーストリア間に予備講和条約調印 ⇒ フランスがロレーヌ公国を確保、その見返りにロレーヌ公フランソワ・エティエンヌ(後の神聖ローマ皇帝フランツ1)がトスカーナを得ることになる。ロレーヌ公がマリア・テレジアの婚約者であることから、トスカーナが将来自らの王朝の領土となるために皇帝はこの解決策を受け入れ、スペインの守備隊はトスカーナから撤退 ⇒ トスカーナとロレーヌの運命はどちらの国の意見も聴くことなく変更された
1737年 ジャン・ガストーネ死去 ⇒ 新大公にフランソワが就任、元老院も新大公への忠誠を誓うとともに、皇帝からトスカーナがロレーヌ家のフランソワに封土として与えられた
メディチ家最後の代表者であるプファルツ選帝侯未亡人は、豪奢な宮殿に籠り、孤高を保った生活を維持、莫大な金額を慈善に費やすほかは、サン・ロレンツォ教会での家族の霊廟の建設に着手、1743年に死去した時は、世界最大の美術コレクションを新大公とその後継者たちに遺贈。遺贈にあたっては、コレクションの一つたりともフィレンツェから動かさないこと、すべての国の民衆の利益になるという条件を付け、後のフィレンツェ及び美術を愛するすべての人々にとって計り知れない重要性をもつこととなった



先駆的政策にみる名家の矜持
日本経済新聞 書評 2012/6/17 フォームの始まり
フォームの終わり
15世紀にその最盛期を迎えたルネサンスの発信地フィレンツェは、今日、「都市博物館」といわれている。ここの「君主」として権勢をふるっていたメディチ家は、ルネサンス芸術を全面的に庇護(ひご)したばかりでなく、2人のローマ教皇レオ10世とクレメンス7世、さらに4人の枢機卿を輩出し、また1569年に教皇から「トスカーナ大公」位を授与される、イタリア屈指の名家であった。しかしながら、17世紀初頭以降、ヨーロッパの覇権をめぐってブルボン家とハプスブルグ家の近隣諸国を巻き込む死闘が大きな地殻変動を惹起(じゃっき)し、メディチ家も歴史の表舞台から次第に消えてしまう。
(柴野均訳、白水社・3800円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 それにしても、メディチ家はどのように終焉(しゅうえん)したのだろうか。
 本書によると、「第12代」のコジモ3世は、ルイ14世の従姉妹(いとこ)を妃(きさき)に迎えるが、政治に全く無関心だった彼は宗教的な禁欲主義に固執し、一方、快楽主義者の妃は、「フィレンツェを監獄、メディチ家を看守」と見なすようになり、パリに戻る。
 当時のフィレンツェは聖職者で溢(あふ)れかえり、極貧と飢餓状態の人々が絶望のあまり犯罪に手を染め、「公開処刑は一日平均六人に達した」末期的状況であった。
 コジモの後継者選定がすべて失敗し、最後に収まったのは、次男のジャン・ガストーネであった。この「第13代」が迎え入れたハプスブルグ家系の妃はボヘミア定住に固執し、大公国を訪れることもなく、事実上破綻した夫婦関係であった。1737年、ジャンは世継ぎを残さず死去したためにメディチ家は断絶し、大公国はハプスブルグ家の版図に組み込まれる。
 確かに、ジャンは常習的飲酒と賭博にとっぷりつかり、それに桁外れの奇行を重ねたが、父親とは対極の、きわめて啓蒙主義的な政策を打ち出したのだった。宗教と政治の分離、聖職者の刑事裁判官の禁止、フリーメーソンの許可、ユダヤ人迫害の禁止、貧者の税金免除などであった。こうした時代を先取りした政策こそ、すでに嘆かわしい荒廃と老朽化した大公国とは無縁であったろうが、人類の文化史に重要な足跡を残したメディチ家の最後の揺るぎない矜持、といえそうである。
(法政大学教授 川成洋)

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