真珠の耳飾りの少女  Tracy Chevalier(木下哲夫)  2012.4.16.


2012.4.16. 真珠の耳飾りの少女
Girl with a Pearl Earring 1999

著者  Tracy Chevalier ワシントンDCうまれ。84年イギリスに移住。事典類の編纂に数年間携わった後、イースト・アングリア大の文章創作修士号を94年に取得。処女作『The Virgin Blue』で97W.H. Smith社の新人賞を射止め、2冊目の本作が大ベストセラーとなり、実力と人気を兼ね備えた作家として高い評価を受ける。夫と息子の3人でロンドンに住む。

訳者 木下哲夫

発行日          2004.3.10. 印刷     4.5. 発行
発行所           白水社 白水Uブックス(海外小説の誘惑)

2000年に単行本として刊行

巨匠フェルメールに淡い思いを寄せ、絵画のモデルになった少女フリートの運命は?
神秘に包まれた名画の光と影に迫り、世界で200万部を超えた、ベストセラー恋愛小説!
映画化原作
フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』のモデルを主人公にした、極力史実に忠実に書いたものだが、あくまで著者の想像力の産物で、実際のモデルの素性は誰ひとりはっきりとはわかっていない
登場人物のフェルメール一家全員、パトロン(ファン・ライフェン夫妻)、友人のレーウェンフック(遺言執行人を務めた記録はあるが、どの程度の付き合いか、カメラ・オブスタクルを貸す間柄か等は不明)、絵を注文したパン屋は実在
フェルメールがカメラ・オブスタクルを使ったかどうかも専門家の間で意見が分かれる
『真珠の首飾りの女』(モデルはライフェン夫人)では、フェルメールが描いている途中でカメラ・オブスタクルを通して場面を観察した末に、壁に架けてあった地図を外すという挿話が出てくるが、特殊な方法で撮影した結果、背景の白壁の下には大きな地図が描かれていたことが判明している ⇒ 事実に基づくエピソードを取り入れ
『手紙を書く女』でも、フリートが思い余って青いテーブルクロスの形を変えてしまうとあるが、画面左のテーブルクロスがちゃんと妙な形に盛り上がっている ⇒ 事実に基づくエピソードを取り入れ
『牛乳を注ぐ女』 ⇒ 本書では、もう一人の女中がモデルになったとある
『水差しを持つ女』 ⇒ 本書では、パン屋の娘が風邪を引くもとになったとされた絵、フリートが代わりにモデルの場所に立ったことがある
『女と2人の紳士』 ⇒ 本書では、パトロンが女たらしの本領を発揮したとある(女たらしかどうかは不詳)
『合奏』 ⇒ 本書では、義母の売込みが成功してモデル3人を使った絵となる。『真珠の耳飾りの少女』と並行して書かれた
17世紀のオランダは、文明史上極めて稀な時代。中世には遠方の強国にとって辺境の領地に過ぎなかったオランダは、半ば水浸しの特殊な地勢条件のためもあり封建制度が成立せず、都市はそれぞれ自立した形で水路を利した中継貿易を営み、自由な経済を発達させていた。16世紀初めにドイツで宗教戦争が始まると、その影響で1568年に宗主国スペインを相手取って独立戦争に突入。この戦争は80年におよぶが、戦争の間にも海上貿易圏は拡がり国力も増す。ハンザ同盟が廃れ、スペインとポルトガルが衰退、フランスとイギリスが力をつけるにはまだ間のある強国不在の真空状態に等しかったため、オランダは思いもかけず束の間の繁栄を謳歌する。この時期のオランダの経済・文化両面の繁栄を支えたのは専制君主や貴族、聖職者ではなく、何につけ今日の私たちの感覚ともさほど隔たりの無い商人層だった。だからこそ、絢爛豪華なバロックが盛りの周辺の諸国を尻目に、オランダではおよそ地味な、市民の身近な暮らしの一場面を質素に描く絵に対する需要が生まれ、それに応える腕利きの画家が次々と世に出た。

谷川俊太郎のエッセイ『フェルメールへの渇き』
見えるものを、見えるとおりに画こうとした人、基本的にはそういう風に私はフェルメールを理解している。すべての画家がそうだと言えぬこともないが、フェルメールにおいて独自なのはその見え方だったのであって、見えるものとは彼にとって夢に見えるものではなく、幻覚に見えるものでもなく、観念に見えるものでもなかった。それは根本的には平凡な人間の、平凡な視覚に見えるものと何の相違もなかった。そういう自分の目に見えるものをフェルメールは信じていた。彼はそれらを見ると同時にそれらを聞き、それらを嗅ぎ、それらに触れ、それらを感じ、それらを生きた…彼の目には現実の事実や人間は、そのままで限りなく美しいもの、精妙なもの、不思議なものに見えていたに違いない…現実へのそういう信頼が彼の眼を深め、遂には写実力がそのままで想像力と化す奇蹟が起こったのだ。

あらすじ
1664年 オランダ西南部の都市デルフトのタイル職人の一家が、主人がタイルの窯の爆発で失明、一家を支えるため、長女フリートがフェルメールの家に女中奉公することになる。フリートはフェルメールを一目見て崇拝する
フェルメール家は、妻とその母親、4人の娘、2人の息子、女中2人の11人が同居。最終的には子供が11人産まれる。フェルメールが寡作のため、暮らしは決して裕福とは言えない。夫人は絵に興味なくもっぱら子作り。義母が商才を持ち、フェルメールをけしかけるが、気に入った物しか描かない
商売で成功した市民の力が強くなり、フェルメールのパトロンもそういう富裕階級が多い
フリートの妹がペストで死亡、弟は父親の後を継ぐべくタイル工場に徒弟奉公へ
フェルメールは、アトリエの中を勝手に動かさないように掃除のできる女中を捜す。奥方はがさつで任せられず、アトリエに入ることすら禁じられているため、フリートだけがアトリエに入ることを許され、掃除を任される
フリートは、町の肉屋の息子から言い寄られ、家族も食いっぱぐれがなくなることから、娘と付き合うことを許すが、フリートはまだ早いと言ってはぐらかす
ある日、フェルメール家をファン・レーウェンフックが来訪、カメラ・オブスクラ(箱型カメラで、レンズを通してガラスに反射させた像をすりガラスに投影してみるもの)を見せ、フェルメールはその虜になる
フリートはフェルメールからそれを覗かせてもらい、肉眼と違った光と色彩の別次元の世界に驚く
新たな子供が生まれるために乳母が泊まり込むことになって、フリートはアトリエの屋根裏部屋に移る。
アトリエの掃除をしながら、フェルメールの絵に興味を持つようになり、『手紙を書く女』の絵の調子に疑問をもって青いテーブルクロスの形を変えたことをフェルメールが感心してから、フェルメールから顔料の調合を一部手伝わされるようになったり、モデルがいない時に代わりにモデルの場所の穴埋めに使われたりするようになる
夫人には、フェルメールの絵の手伝いをしているのを内緒にしていたが、義母はすぐにそれを見つけるも、フェルメールの仕事が捗るようになったとして黙認
パトロンがフリートに色目を使い、一緒にモデルになった絵を描かせようとするが、フェルメールが拒否。妥協案として、パトロンたちがモデルになった『合奏』と同時に、フリートだけをモデルにした別の絵を描くことで折り合いをつける。これが『真珠の耳飾りの女』。フリートがモデルになることは夫人には内密
フリートはモデルになるとき、他のモデルのように着飾っても自分の特徴が出ないとして、普段着のままのモデルを提案、ただ髪の毛をまとめる頭巾にはフェルメールの指示に従って青と黄の布を使うことにする。頭巾を巻きつけているところにフェルメールが入ってきて、髪の毛を触り、モデルにした時も少しターバンから髪をはみ出させる。フリートは自分の髪を人に見せることを淫らな行為として忌避してきたが、憧れの人に触られたうえに見られてしまい、すべてを失った悲しみから、肉屋の許嫁に身を任せる
絵が出来上がるが画竜点睛。フェルメールも、どうせパトロンにやってしまう絵であればこれで十分と思ったが自分の作品としては何かが足りないと感じる。フリートもフェルメールも足りないものが真珠の耳飾りだと気付く
いつものモデルの身につけるものは夫人の衣装や装身具だったが、フリートは夫人の装身具をつけることだけは出来ないと断ったものの、夫人のいない間に義母が持ち出して身に着けることに。真珠の耳飾りはピアスで、耳に穴が開いていないと訴えたが、フェルメールからはどうするのか自分で決めろと言われ、誰の助けも借りられずに自ら開けることを決意、薬屋で高価な麻酔薬を入手し、痛みをこらえて崇拝するフェルメールのために耳に穴をあける。
絵が出来上がったところで、いたずらな娘が夫人にチクる。女中がモデルになったことを初めて知った上に、自分の装身具まで持ち出したことを知って夫人が逆上、フェルメールも含め誰も真実を話して自分を庇ってくれようとしないフェルメール一家の扱いに、フリートは家を飛び出す。
10年後、フリートは肉屋の息子と肉屋を引き継ぎ、子供も持って幸福な生活を送る
フェルメールが急逝、フランスとの戦争(歴史上はイギリスとの戦争)で庶民の生活が窮迫し、絵の注文も激減、パトロンのライフェンも死去、さらに実家の宿屋の負債まで背負い込んでいたところから、フェルメール家の台所は火の車。フリートの肉屋にも15ギルダーのツケの未払いが残っていたが、夫はフリートをフェルメール家から取り戻したのだから安いものだと言って請求しようとしない。
レーウェンフックがフェルメールの遺言執行人(史実)となる。フリートが突然呼び出されてフェルメールの家に行くと、夫人が夫の遺言だからと言って、あの真珠の耳飾りを渡される。持って帰ると家の者にもその理由を説明しなければならないところから、処分に困り、闇屋に持って行くと20ギルダーが手に入る。肉屋に残されたフェルメール家のツケの穴埋めに充当した残りは家の者に見つからないところに隠した



Wikipedia
『真珠の耳飾りの少女』 (1665年頃)
ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer, 1632 - 1675)は、17世紀オランダで活躍した画家。誕生日、死亡日ともに不明。本名をヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフトJan van der Meer van Delft)という。後ろのファン・デルフトは「デルフトの」という意味で、彼が同名のアムステルダム在住の他人と間違えられないように付け加えたものである。父親の名前は、レイニエル・ヤンスゾーン・フォスといい、元々の姓はファン・デル・メールではなく、フォス(Vos)、英語ならFox、つまりを意味するものだった。父親はなぜそれをファン・デル・メールとしたのか、さらにその息子がそれを短縮してなぜ「フェルメール」としたのか、分かっていない。レンブラントと並び17世紀のオランダ美術を代表する画家とされる。生涯のほとんどを故郷デルフトで過ごした。
最も初期の作品の一つ『マリアとマルタの家のキリスト』(1654-1655頃)に見られるように、彼は初め物語画家として出発したが、やがて1656の年記のある『取り持ち女』の頃から風俗画家へと転向していく。静謐で写実的な迫真性のある画面は、綿密な空間構成と巧みな光と質感の表現に支えられている。
現存する作品点数は、研究者によって異同はあるものの3336点と少ない。このほか記録にのみ残っている作品が少なくとも10点はあるが、記録に残っていない作品を勘案しても22年の画歴に比してやはり寡作というべきだろう。
1632にデルフトに生まれる。誕生日不明。同年1031にデルフトで洗礼を受けた。絹織物職人として活動するかたわら居酒屋・宿屋を営んでいた父は(このあたりからフォス姓を捨て、ファン・デル・メール姓を使用している)、ヨハネス誕生の前年に画家中心のギルドである聖ルカ組合に画商として登録されている。10年後の1641にはフェルメールの家として知られるメーヘレンを購入し、転居した。
フェルメールは165345、カタリーナ・ボルネスという女性と結婚したが、彼の父に借金があったことや、彼がカルヴァン派プロテスタントであるのに対して、カタリーナはカトリックであったことなどから、当初カタリーナの母マーリア・ティンスにこの結婚を反対された。デルフトの画家、レオナールト・ブラーメルが結婚立会人を務めている。この8カ月後に聖ルカ組合に親方画家として登録されているが、当時親方画家として活動するには6年の下積みが必要だったため、これ以前に誰かの弟子として修業を積んだはずだが、誰の弟子となったのか不明。カレル・ファブリティウスとの説もあるが、確証がない。修業地はデルフト以外の場所だった模様。新婚当初は「メーヘレン」にて生活していたが、しばらくしてカタリーナの実家で大変裕福な母親とともに暮らしを始めている。この理由はよくわからないが、カレル・ファブリティウスも命を落とし、作品を大幅に焼失させた1654の大規模な弾薬庫の爆発が原因とする説がある。彼らの間には15人の子供が生まれたが、4人は夭折したが、それでも13人の大家族であり、どんな溢れる才能があっても今も昔も変わらないが、絵筆一本では食べていけなかったため、裕福な義母マリアに頼らざるを得なかったと思われる。
父親の死後、1655に実家の家業を継いで、居酒屋・宿屋でもあった「メーヘレン」の経営に乗り出している。こういった収入やパトロン、先述の大変裕福だった義母などのおかげで、当時純金と同じほど高価だったラピスラズリを原料とするウルトラマリンを惜しげもなく絵に使用できた。また、この年の920ピーテル・デ・ホーホが聖ルカ組合に加入したことで、デ・ホーホとの親密な付き合いが始まった。この2人はのちに「デルフト派」と呼ばれるようになる。他のオランダの都市に比べて、この時代のデルフトの美術品・工芸品はよりエレガントな傾向があるが、それはデルフトの上品な顧客層やオランダ総督を務めたオラニエ=ナッサウ家の宮廷があるデン・ハーグに近く、宮廷関係の顧客の好みが作風に反映されていたからで、フェルメールやデ・ホーホも洗練された画風の静寂な作品を描いている。
1657から彼は生涯最大のパトロンであり、デルフトの醸造業者、投資家でもあるピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンに恵まれた。このパトロンはフェルメールを支え続け、彼の作品を20点所持していた。彼の援助があったからこそ、仕事をじっくり丁寧にこなすことができ、年間23作という異常な寡作でも問題なかったのである。
聖ルカ組合1730年ごろに出版された銅版画)
ハールレムの聖ルカ組合の理事たち』(1675)
1662から2年間、最年少で聖ルカ組合の理事を務め、また1670からも2年間同じ役職に就いている。2度にわたって画家の組合である聖ルカ組合の理事に選出されるのは大変珍しいことであり、生前から画家として高い評価を受けていたことが伺われる。
レンブラントの時代はバブル景気に沸いていたが、1670年代になると、画家兼美術商である彼にとって冬の時代が始まった。3次英蘭戦争が勃発したことでオランダの国土は荒れ、経済が低迷していったことや、彼とは違った画風をとる若手画家の台頭によって彼自身の人気が低迷していったことが原因である。追い打ちをかけるように、この頃に最大のパトロン、ファン・ライフェンも亡くなっている。戦争勃発によって彼の義母はかつてほど裕福でなくなり、オランダの絵画市場も大打撃を受けた。戦争勃発以降、彼の作品は1点も売れなくなった。市民社会の流行の移り変わりの激しさには、レンブラントも泣かされている。ちなみに、この打撃によってオランダの画家数は17世紀半ばと17世紀末を比べると、4分の1にまで減少している。
11人の子供のうち、8人が未成年であったため(当時の未成年は25歳未満を指した)、大量に抱えた負債をなんとかしようと必死で駆け回ったが、とうとう首が回らなくなり、1675にデルフトで死去した。1215に埋葬されたとの記録がある。死亡日不明。没年齢423歳。彼の死後、カタリーナには一家を背負う責任がのしかかったが、結局破産した。同郷同年生まれの織物商であり博物学者としても知られ、顕微鏡を発明したアントニ・ファン・レーウェンフックが死後の遺産管財人となった。破産したため、彼の妻カタリーナは過酷な生活を送る羽目となったが、その母マーリアは彼の莫大な負債から孫を守ろうとして直接その遺産を手渡したため、その生活を改善してやることはできなかった。1680には義母マーリアも死去し、彼の死後12年経った168756歳でカタリーナも息を引き取った。
絵画技法 [編集]
『ヴァージナルの前に立つ女』
人物など作品の中心をなす部分は精密に書き込まれた濃厚な描写になっているのに対し、周辺の事物はあっさりとした描写になっており、生々しい筆のタッチを見ることができる。この対比によって、見る者の視点を主題に集中させ、画面に緊張感を与えている。『レースを編む女』の糸屑の固まり、『ヴァージナルの前に立つ女』の床の模様などが典型的な例として挙げられる。
フェルメールは、描画の参考とするため「カメラオブスキュラ」という一種のピンホールカメラを用いていたという説がある。
彼の用いた遠近法については、NHK制作のドキュメンタリー「フェルメール盗難事件」にて別の研究成果が紹介されていた。まず、絵の一部に消失点となる点を決め、そこに小さな鋲のようなものを打つ。次に、その鋲にひもを結びつけてひっぱる。このとき、このひもにチョークを塗り、大工道具の墨壺のような原理で直線を引く。この線と実際の絵を比較すると、窓やテーブルの角のラインが一致している。フェルメールの17の作品において鋲を打っていたと思われる場所に小さな穴があいていることからもこの手法がとられていた可能性は高い。
少女の髪や耳飾りが窓から差し込む光を反射して輝くところを明るい絵具の点で表現している。この技法はポワンティエ(pointillé)と呼ばれ、フェルメールの作品における特徴の1つに挙げられる。
また、フェルメールの絵に見られる鮮やかな青は、フェルメール・ブルーとも呼ばれる。この青は、天然ウルトラマリンという顔料に由来している。
主な作品 [編集]
牛乳を注ぐ女 』(1658-1660


1.    「マリアとマルタの家のキリスト」(1654-1655) - スコットランド国立美術館エディンバラ



マルタとマリアの家のキリスト 1654-1655年頃 
油彩 カンヴァス、158、5×141、5・
スコットランド・ナショナル・ギャラリー
フェルメールの初期のものだと思われているこの作品は、彼が駆け出しの画家として抱いた興味やどこで修行したかについて示唆に富んでいる。力強いタッチや人物構成を見ると。彼はユトレヒト派に通じていたようである。作品の由来は、スコットランド・ナショナル・ギャラリーの蔵品目録、「ブリストムの某家から某家具商から8ポンド81サンチームで購入した」という記録から始まる。その後1901年ロンドンのフォーブス・アンド・パターソンの画廊の展覧会に展示され、同じ年、フェルメールの作品と認められた。この時の所有者は、スコットランドのスカルモーリ城主W.Aコーツで、彼の二人の息子が、父親を記念して美術館に寄贈し、今に至っている。
 幾つもの絵の修正跡からはキリストの右手の人差し指、横顔と耳、マルタの右袖の端の位置を若干描き変えた事が分る。またテーブルにかけられた東洋風の敷物は<眠る女>に描かれているものと良く似ている。もしかするとフェルメールは所有していた敷物をもとに色を変えて絵の中に描いたのかもしれない。
ちなみに「ルタとマリアの家のキリスト」は、16世紀以来ネーデルランドで頻繁に取り上げられた主題の一つである。キリスト一行を迎え、食事の支度に忙しくしていたマルタは、キリストの傍らにいてその話に耳を傾けていたマリアに気を悪くした。マリアに同じように働いてほしかったのである。不平を言うマルタをキリストは「なくてはならないものは多くない。いや、一つだけである。マリアはその良い方を選んだのである。」(ルカ福音書10章38~48節)。このキリストの言葉ゆえに、マリアとマルタはそれぞれ瞑想的な世界と世俗的な世界を具現し、見る者は2つの世界のどちらかの選択を迫られる。キリスト教的教訓が問われているのである。図像構成としては、たいていキリストは椅子に座り座り手を差し伸べ、マリアは、その傍らに座って彼の話に耳を傾け、マルタは家事に勤しみつつ(マリアを指差し)キリストに何事かを訴える、という形をとる。

2.    聖プラクセディス 1655年 


油彩 カンヴァス、101.6×82.6・
バーバラ・ピアセッカ・ジョンソン・コレクション

 制作年が記されたこの絵はフェルメールの最初のものだと言われているが、作品について判明している来歴は非常に新しく、1943年、ニューヨークのE.&J.リーダーから始まる。約20年間絵画市場を流転し、1969年に初めてキトソンによりフェルメールの作品ではないかとの指摘がなされた。この作品の真筆性を擁護する論陣をはっているのはアーサー・ウィロックであり、彼により初期のフェルメール作品と認められた直後の1987年、バーバラ・ピアセッカ・ジョンソン・コレクションに収蔵された。
 興味深いのは作品上に二つの銘文が見られる事だ。右下にある「Meer 1655」と右下にある「Meer N R...o.o」の銘文は「Meer naar Riposo」(リポソに拠るメールのコピー)と解釈され(ちなみにリポソとは物静かであったフィケレッリの生前のあだ名)ともあれ、この2つの署名が決め手となって<聖プラクセディス>はにわかに注目を集めるようになった。
 <ダイアナとニンフたち>、<眠る女>との筆使いの類似、フェルメールが鑑定に呼ばれるほどイタリア絵画に精通していたこと、さらには原作にない十字架がコピーに付け加えられることなどが挙げられている。

3.    ディアナとニンフたち 1655-1656年 
ディアナとニンフたち 1655-1656年 
油彩 カンヴァス、97、8×104、6・
マウリッツハイス美術館
デン・ハーグ

 風俗画として有名なフェルメールだが、初期の作品には神話的主題のものが幾つかある。ギリシャ神話ディアナが仲間たちと休息し、黙想するひとときを描いたこの作品はその中の一つだ。主題が珍しく形式上フェルメールの特色とすぐ分る部分が少ない為に作品の作者について議論が落ち着くまで様々なことがあったという。
 始まりは1876年、パリの競売である。C.フォスマールが著者の中で「<ゴールドスミット・コレクションのディアナ>はマ-ス代表作の一つである」と書いたのだ。この事から以後絵はニコラース・マースのものだと思われてきた。1888年のマウリッツハイスの蔵品目録でようやくフェルメール作品として記載された。しかしながら1895年の目録の後には「作者に関して確証はない。かつてはマ-スの作とされた。デルフトのフェルメールの作とする研究者もいる」という疑わしい解説分がつけられている。

4.    「取り持ち女」(1656) - アルテ・マイスター絵画館ドレスデン
取り持ち女 1656年 
油彩 カンヴァス104×130・
ドレスデン国立絵画館
 作品が最初にあらわれたのは1741年ドゥクスのワレンシュタイン・コレクションからザクセン選挙候に購入されたときである。ドレスデンの記憶では「ハーレムのJ・フェルメール」1826年版目録では「ユトレヒトのジャック・ファン・デル・メール」昨と書かれていた。つまり年代と署名があるのにも関わらず作品が17世紀に活躍した他の「フェルメール」と混同されていたのだ。その後トレ=ビュルガーがデルフトのフェルメール作としたが第二次世界大戦の混乱の中、1945年ソ連軍により持ち去られてしまった。幸い10年後の1955年ドイツ民主共和国へ返還され、再度ドレスデン国立絵画館におさめられた。
 この絵と画面左側に立つ長髪の若い男性は、<絵画芸術>に描かれた画家とよく似た衣装とペレ-帽をまとってありフェルメールの自画像ではないかと言われている。

5.    眠る女 1657年頃

眠る女 1657年頃
油彩 カンヴァス
87、6×76、5・
メトロポリタン美術館、ニューヨーク
ベンジャミン・アルトマンより遺贈(1913年)
この<眠る女>はフェルメールの作品の中でもかなり有名な作品である。1682年ディシウス・コレクションで見受けられた後、1696年5月にアムステルダムで20点のフェルメール作品と共に競売にかけられた。最終的には1913年ベンジャミン・アルトマンからメトロポリタン美術館に遺贈された。
 フェルメールはこの作品に単なる室内画以上の意味合いが込めたようだ。16、17世紀の版画では肘をついて眠る女は「怠情」を意味していたが近年のX線写真からフェルメールははじめ戸口の敷居の所に奥の部屋に立つ男を見つめる犬を1匹描いていた事がわかった。その他にも「オートラディオグラフィー」という新技術によってフェルメールが作成の過程で逆さになったワイングラスと共にぶどうの葉を白い水差しの横に描き加えるなど、幾つかの細部を微妙に変更する心づもりであった事が明らかになってきている。

6.    「牛乳を注ぐ女」(1658-1660) - アムステルダム国立美術館アムステルダム
牛乳を注ぐ女 1658-1660年頃
油彩 カンヴァス、45、4×40、6・
アムステルダム国立美術館
 フェルメールの他の多くの作品と同様、本作品の一番最初の記録はディシウス・コレクションに始まる。16965月のアムステルダムでの競売では「牛乳を注ぐメイド、優品」として175ギルターと言う高値がついた。その後も常に評価は高く、1765年の競売では560ギルターで「某イギリス貴族代理人」イーヴルが落札した。その後30年後1798年の競売でも「わきの窓から差し込む光がいかにも自然ですばらしい。色調は力強く筆運びは印象的、この無類の画家の最も美しい作品の一つ」と絶賛されており、この時はJ・スパーンに1550ギルターで売却された。1813年の競売では「壁には打ち込まれた釘が何気なくしかも力強く描かれている」ことまで言及して「この画家の傑作とも言えよう」と結んでいる。この時落札した人物が後にヘンドリック・シックスに嫁ぎ作品は彼の直系遺族のコレクションに入った。最終的にこのシックス・コレクションから1908年アムステルダム国立美術館が購入することになる。
 フェルメールがよく描いていた室内にいる洗練された女達とは異なり<牛乳を注ぐ女>に描かれているのは飾りのない女性である。彼女が誰であったのは分かっていないがこの絵が製作された時期から考えて当時フェルメールの義母マーリア・ティンスの許で働いていたメイドのタンネケ・エフェルプールがモデルだったかもしれない。彼女を取り巻く漆喰の壁、女の衣服、ひとかけのパン、銅製の鍋、牛乳の入った壷などそこには見れる者が予期する質感、触知できるような感触がある。
 <牛乳を注ぐ女>をX線写真で見ると人物部分の下塗りはテーブルの上の静物より素速く自由な筆遣いで描かれている事が分る。フェルメールはまず人物を素早く写生しその後でゆっくりと静物を描いたらしい。また制作の過程で構図を簡素にした結果壁に引っ掛けた地図と壁の下端にあった洗濯籠が塗りつぶされた。


7.    ぶどう酒のグラス 1658-1660年頃

ぶどう酒のグラス 1658-1660年頃
油彩 カンヴァス、65×77・
ベルリン国立美術館
 17367月、デルフトで行われたヤン・ファン・ローンの競売で売りに出されたこの作品が1901年、最終的にベルリン国立美術館に購入された時絵は本来の姿をしていなかった。美しい色ガラスが塗りつぶされ、代わりにカーテンと大きく開いた窓の向こうの風景が所々に描かれていたのだ。幸いこの塗りつぶしは除去され、絵は元々の姿を取り戻した。
 この時塗りつぶされていた窓の紋章はヤヌチェ・ヤーコプドフトル・フォーヘルの紋章である。彼女は1624年に没したデルフトの貴族モーゼス・ヤンス・ファンプリーチェの最初の妻だった。紋章に関してこの夫婦が後にフェルメールが暮らす家に住んでいたのだろうと推測する研究者もいる。けれど1618年までこの家の記憶によればそのような事実は残念ながら見当たらない。同じ窓が<ワイングラスを持つ娘>にも描かれているがその経緯はやはり謎のままである。

8.    兵士と笑う娘 1658-1660年頃

兵士と笑う娘 1658-1660年頃
油彩 カンヴァス、50、5×46・ 
フリック・コレクション、ニューヨーク
1682年ディシウス・コレクションの他の多くのフェルメール作品と共にあった本作品は約180年後の18615月ロンドンのオークションでデ・ホーホ作として売りに出された。この混同は二人の画家の主題や様式が似ている点を考えれば無理もないだろう。しかも1866年以前広く知られていたデ・ホーホに対しフェルメールの名はほとんど知られていなかった。絵はその後も流転をくり返し1911年にクヌードラー画廊からHCフリックが購入、現在は美術館になっているフリック・コレクションに一部となっている。
 後ろに見える壁掛けの地図は「ホラント及び西フリースランド全地方新精密地図」である。この地図は<青衣の女>や<恋文>などにも描かれているからもしかするとフェルメールが所有していたものかも知れないが残念ながら財産目録には出てこない。



9.              小路 1657-1658年頃
油彩 カンヴァス
アムステルダム国立美術館
路は<デルフトの眺望>と共にフェルメールが描いた数少ない風景画のうちの1枚である。1682年にディシウス・コレクションのリストに見る事が出来その後も常に高い評価を得ていた。1819年頃J・マレ-はこの絵を見て次のように賞賛した。「ある通りの片側の眺め。一軒の家を開いたドアの所に老女が座って仕事をしている。通路の向こうではもう一人の女が流しを磨いている。全てがこの画家の独特の誠実さと才気で描かれている」幾つもの変還をえて最終的には1921HWAデーテルディングによりムステルダム国立美術館に寄贈された。
 X線写真を見るとフェルメールが左側にある道路に視覚的ゆとりを持たせる為に戸口に座っていた人物を塗りつぶしたことが分る。また絵の中に建物に関しては、16世紀以前の外観である事が判明している。ただ、それがどこにあった建物であるかについては議論が分かれ、決定的な証拠もないまま未だに解明されていない謎の一つになっている。

10.          「紳士とワインを飲む女」(1658) - ベルリン美術館ベルリン ?
ワイングラスを持つ娘  1659-1660年頃
油彩 カンヴァス、77、5×66、7・
ヘルツォーク・アントン・ウルリッヒ美術館
ブランシュヴァイク
 この作品は初めディシウス・コレクションに納められており、1696年の競売の時に、ブランシュヴァイクのアントン・ウルリッヒ公に購入されたらしい。1807年にはナポレオン1世によってパリに持ち去られてしまったが、幸い1815年にブランシュヴァイクに変還された。ただ、1900年ヤン・フェスが「ベルリンの修復家ハウザーがかなりひどい扱いをした」と記している。幸運な事にニスの層は痛んでいるものの、その下の細部は完全に保存されていた。
 美しい窓の家紋は<ぶどう酒のグラス>の描かれたものと同じである。以前、ミリモンドは家紋の女性を、身をくねらせる蛇を手に取る「弁論」の像にと解釈した。しかし1978年にはR・スレスマンにより手綱を持つ女性は伝統的に「節制」を表すと正しく判断され、室内で展開される色恋沙汰へ戒めとして描かれたものではないかと言われている。

11.  窓辺で手紙を読む若い女
窓辺で手紙を読む女 1657
油彩 カンヴァス、83×64、5・
ドレスデン国立絵画館
この<窓辺で手紙を読む女>については最終的にドレスデン国立絵画館に落ち着くまでの数奇な運命を取り上げる事ができる。この絵の最初の記録は1712年のピーデル・ファン・デル・リップ競売である。1742年ザクセン選挙候アウグストが入手したがその時の作品はレイブラントの作だと思われていた。1801年にはレイブラントの弟子の作品とされ、1826年から1860年にかけて今度はデ・ホーホの作品とされた。その後署名についての指摘があったことによりようやくフェルメール作として認められることになった。
 第二次世界大戦の中、ナチス軍は多くの美術品をドイツ各地に隠した。その為<窓辺で手紙を読む女>を含むドレスデン絵画館の名画も行方が分らなくなっていたのだが1945年ソ連の戦利品部隊がこれらの作品を塩鉱山の坑道から発見した。しかも彼等は発見した絵画を戦利品としてソ連に送ってしまった。こうして、<窓辺で手紙を読む女>は同じくドレスデンにある<取り持ち女>と共に1945年から10年間戦利品として持ち去れ事になる。後にソ連はこの略奪について「醜い保管状態であった美術品を救ったと美談と作り上げ宣伝した。
 X線写真を見るとテーブルの上にガラスの器が一つ右下の隅に非常に大きなガラスの器がもう一つ描かれている事が分る。また人物の位置がわずかに変更された事、さらに右上の壁に「キューピット」の絵が描かれている事も分かっている。もしこの絵が残っていれば娘が読んでいるのは恋文という事になっていただろうが、フェルメールは最終的にこの「キューピット」を塗りつぶして絵の意味合いを謎めいたものにした。


12.  デルフトの眺望 1660-1661年頃

デルフトの眺望 1660-1661年頃、
油彩 カンヴァス、96、5×115、7・ 
マウリッツハウス美術館
デン・ハーグ
フェルメールの作品の中でも最も質の良いものとされているこの作品は、また現存する二枚の風景画の大きな方の作品である。デルフトの南端を流れるスヒ-川からの眺めを描いたこの絵は1682年ディイシス・コレクションで確認された後、1696年アムステルダムの競売では200ギルターという高値がついた。これは同じ競売にかけられたフェルメールの作品のなかで最も最高額だ。18225月アムステルダムのSJ・スティンストラ競売では「これほど大胆で力強く見事な作風はない。至る所に心地よい陽の光が輝く、大気と水の色調、建築と人物、諸物事がすばらしい調和を示している、この種の絵画としてはきわめて独創的な作品である」と絶賛されて、2900ギルターで落札された。1822年、オランダ政府が作品を購入した際にはマウリッツハウスの他にもアムステルダム国立美術館も購入を希望した為オランダ王ウィレム1世が最終的にはマウリッツハウスに決定した。
 全景の二人の女性の右には、最初男性の姿が一人描かれていたが、二人の女性の間に微妙な距離感を保つためにフェルメール自身の手で塗りつぶされた。また、デルフトの光景を一見忠実に再現したかに見えるこの作品について、X線写真から意外な事実が判明した。フェルメールは製作途中から現実を忠実に再現することよりも明解で単純な構図を作るようになっていたのだ。水映った市門の二つの塔の影は画面下端まで達しているが、初めはもっと短く構想されてた。フェルメールは本当は塔も含め水面に映った市門全体が描きたかったのだが仕上げの段階で水に映る影を長く引き延ばしたのだ。ロッテルダム門の前、右側にある2隻の船のサイズを大きくしたり、前景の岸辺にいる人々のサイズを縮小して観覧者の視線が向こう岸の建物からそれないように配慮している。またアーサー・ウイロックは描かれた場所についてフェルメールの時代ここは非常に賑やかな港で作品に感じられる程静かな印象を与えはしなかっただろうと指摘している。フェルメールは対象となる情景をただ模写するのではなく、幾つか変更を加える事によって絵画効果を強めようとしたのだ。

13.  中断された音楽の稽古 1660-1661年頃

中断された音楽の稽古 1660-1661年頃
油彩 カンヴァス、39、3×44、4・
フリック・コレクション、
ニューヨーク
 この作品が18108月アムステルダムで競売にかけられた時、既に絵にはフェルメール以外の人の手によって幾つもの加筆があ行われていた。壁にはバイオリンや他の物がかけられていたし、1899年にはホーフステーデ・デ・フロートが奥の壁の鳥籠も後世の加筆であると解説している。さらに1899年当時はまだあった「右側の暖炉の一部」もフェルメールが描いたものではなかった。現在壁のバイオリンも暖炉はなくなっているが絵自体の損傷が激しく一時期は洗い過ぎの真作か模作であるか判別がつかなかったこともある。しかしながらこの絵は1660年代初めのフェルメールの作品の特色を示しており、保存状態のよいテーブルの上の静物にそれがよく表れている。1901年にクヌードラー画廊から購入され、フリック・コレクションに加わった。

14.  音楽の稽古 1662-1664年頃

音楽の稽古 1662-1664年頃
油彩 カンヴァス、 74×64.5・ イギリス王室コレクション
エリザベス2世所蔵

 この作品は、1696年5月にアムステルダムの競売にかけられてからまなざまな人の手に渡った。1718年に偶然デン・ハーグに滞在していたベネツィアの画家ジョヴァンニ・アントニオ・ベッレグリーが購入し、彼の死後未亡人がイギリスのベネツィア領事ジョセフ・スミスに売り渡した。その後、J.スミスは自分のコレクションの大部分をジョージ3世に売却されたのだがこの中に<音楽の稽古>も入っていた。こうしてこの作品はジョージ3世・コレクションを経て今日のイギリス王室コレクションに入ったのである。
 ヴァージナルに刻まれた銘文によれば音楽は「歓びの友、悲しみの薬」であり二人の男女が愛を表す手段である。また右背後の壁にかかる絵はその主題からフェルメールの義理の母が所有していた絵だったようだ。最近の科学調査結果からはフェルメールが初めて男性をやや女性の方へ近付けていたことや女性の頭部は本来は鏡の像に正しく対応する位置にあったことが分かっている。

15.  青衣の女 1663-1664年頃

青衣の女 1663-1664年頃
油彩 カンヴァス、46.6×39.1・ 
アムステルダム国立美術館
 1712年6月アムステルダムのピーテル・デル・リップの競売で「読み物をする女」として売り出された時からこの作品は高い評価を受けていた。179111月のアムステルダムの競売では「本作品はデルフトのファン・デル・メールが画布に美しく自然に描いたもので好もしい明暗画法がこの有名な画家の作品に特有の、あの美しいくつろぎの効果を生んでいる」と記され、1793年には、「極めて自然に描かれた本作品は比類のない程美しく、細かく、巧みな筆遣いを見せている」と絶賛されいる。反面、面白いのは1809年のパリでの競売の記録に「この画家としてはまずまずの出来」と評されている事だろう。この後、1845年にファン・デル・ホープのコレクションとなり、アムステルダム市に遺贈、1885年にアムステルダム国立美術館寄託となった。
 背後の壁にある当時としては精巧な地図は<兵士と笑う女>や<恋文>に描かれているのと同じものである。

16.  リュートを調弦する女 1664年頃
リュートを調弦する女 1664年頃
油彩 カンヴァス、51.4×45.7・
メトロポリタン美術館
ニューヨーク、コリス・P、ハンティントンより遺贈(1925年)
 現在、<リュートを調弦する女>として知られるこの絵だが、1817P.ファン・デル・スフレーとダニール・デュ・プレ競売で売られた時には絵の中の女性が弾いているのはギターだと思われていた。また、ド・ミリモンドは女性は楽器(リュート)を調律しているのであって演奏しているわけではない事を指摘した。イギリスでコリス・P、ハンティントンが購入した後、1897年彼の蔵品全てと共にメトロポリタン美術館に遺贈され1925年には館に移管された。



17.  水差しを持つ女 1664-1665年頃

水差しを持つ女 1664-1665年頃
油彩 カンヴァス、45.7×40.6・ 
メトロポリタン美術館
ニューヨーク、マーカンド・コレクション  ヘンリー・G.マーカンドより寄贈(1889年)
フェルメールの作品の中にはこでまで長く他者のものだと思われて絵が少なくないが、これもまたその一つである。1838年にロバート・ヴァノーン・コレクションの中にあったこの作品はメツー作<窓辺の女>と呼ばれていた。その後1877年にはパリの画商がニューヨークのヘンリー・G.マーカンドに売却された。その後しばらくしてマーカンドがメトロポリタン美術館に寄贈し現在に至っている。
 背後の壁にはハイク・アッラルト監修の17州地図を見る事ができるがこの地図は一部が現存している。また画中の女性が手を掛けている水差しはどうやらフェルメールの義理母アーリア・ティンスが娘カタリーナに譲った品々の一つらしい。なぜならば財産目録の中に金の水差しを見る事ができるからだ。

18.  真珠の首飾りの女 1664年頃

真珠の首飾りの女 1664年頃、
油彩 カンヴァス、51.2×45.1・ 
ベルリン国立美術館(ダーレム美術館)
 1682年ディシウス・コレクションで、はじめてその名前が見られる本作品は以来非常に自然で美しい作品であると賞賛されてきた。真珠や鏡の前で自分の美しさに見とれている姿は原罪の中のプライドもしくは虚栄心を表し、また鏡は慎重と真実、真珠は信仰と純潔の象徴である。
 最近の科学調査によると、フェルメールは元々椅子の座部にリュートを描いて後ろの壁には地図がかっていた。これらが残されていれば鑑賞者はこの女性に対するマイナスイメージを与えていただろう。
 画面中の女性がまとっている黄色い上着は<手紙を書く女>や<婦人と召し使い>など他の作品の描かれたものと同じで色が違う同様のデザインの上着が<天秤を持つ女>、<合奏>で描かれている。フェルメール死後作られた財産目録に出てくる「白い毛皮に縁取りがついた黄色いサテンのマント」が作中の上着だろう。絵は1868年シュールモント・コレクションに加えられ、1874年以来ベルリン国立美術館にある。

19.  天秤を持つ女 1664年頃




天秤を持つ女 1664年頃
油彩 カンヴァス、39.7×35.5・ 
ワシントン・ナショナル・ギャラリ-
ワイドナー・コレクション
この絵の中の女性はディシウス・コレクションにあった1682年頃から長い間「金貨を秤んでいる」と思われていた。1696年のアムステルダムの競売では155ギルターの高値で売られたが当時絵は小箱に入っていた。1830年のパリの競売では「真珠を秤る女」になっており、アーサー・ウイロックにより天秤の中身は空である事が指摘されたのは最近である。1942年ワシントンのナショナル・ギャラリーにワイドナー・コレクションとして収蔵された。

20.  赤い帽子の女 1665/1666年頃

  赤い帽子の女 1665/1666年頃、
油彩 板、 22,8×18・
 ワシント・ンナショナル・ギャラリー 
アンドリュー・W.メロン・コレクション
この作品は世の中で知られるようになったのは182212月のパリのラフォンテーヌ競売からである。「一条の日差しが彼女の左頬を部分的に照らしている。顔その他の部分は帽子の陰に深く沈んでいる。この魅力的な絵には本物の画家を知らしめる全てがある。流れるような筆遣い、深い色調、見事な出来映え」と絶賛された。1925年にアンドリュー・W.メロンが購入し、ワシントン・ナショナル・ギャラリーに遺贈された。
 フェルメールの作品のほとんどの作品はカンヴァスに描かれている中、珍しくこの作品は板絵である。またX線写真を見ると作品はレイブラント風の男性の肖像画を上下逆さまにした図の上に描かれている。この絵の画面配置は曖昧な所があって女性がライオンの頭部についた椅子の上に座っているのか、椅子の後ろの何かに座っているのか判別がつかない。しかし、その唇やアクセサリーの光の効果、その一瞬の生生しさが高い人気を誇っている。


21.          「手紙を書く女」(1665-1666) - ナショナル・ギャラリー、ワシントンDC
手紙を書く女 1665年頃、
油彩 カンヴァス、45×39、9・ 
ワシント・ンナショナル・ギャラリー 
ハリー・ワルドロン・ハヴメイヤーとホレイス・ハヴメイヤーJr.より彼等の父ホレイス・ハヴメイヤーを記念して寄贈
 まっすぐこちら見つめる若い女性の視線から肖像画として描かれたのではないかと言う説があるこの作品は、デルフトのディシウス・コレクションのリストに最初の記録が残っている。研究者のなかには絵の女性が<少女>の絵に似ている事を指摘する者もいる。確かに突き出した顎や額、間隔の開いた大きな目は共通するが、あまりにも理想化して描かれており、肖像画とは考えにくい。他の絵で同じ上着を着ている他の女性よりだいぶ若く見える事から十代後半くらいと考えて、モデルとなったのはフェルメールの娘だという説もある。しかし、他の作品同様画中の女性が誰であるかは知る決定的な手がかりはない。もし彼女がフェルメールの娘だとすると、この絵が作成された1666年当時彼女が12,13歳以上だった事はあり得ないからだ。
 彼女を後ろに見える絵は多分財産目録に出てくる「コントラバスと頭蓋骨の描かれた絵」と同じもののようである。

22.          合奏
合奏 1665-1666年頃
油彩 カンヴァス、72.5×64.7・
イザベラ・スチュアート・ガードナー美術館
ボストン

 1780年5月、アムステルダムのヨハネス・ローデウェルク・ストラントウェイクの競売にかけられたこの絵は現住所在が分かっていない。189212月にパリのトレ=ビュルガーの競売でイザベラ・スチュアート・ガードナーが落札して、その美術館に所蔵されていたが、何と1990年にレイブラント2点を含む他の12点の作品と共に盗まれてしまったのである。現在に至るまでその行方は不明のままだ。
 この絵は大理石の床上にタイル模様は違うものの、<音楽の稽古>と同じ部屋を舞台にしている。ただ、室内装飾は変わっていて壁にかかっているのはファン・バブレーンの<取り持ち女>である。この絵はフェルメールの義母が所有しており、<ヴァージナルの前に立つ女>にも描かれているまた一番右に立つ女性が着ている上着は<天秤を持つ女>などで女性が着ているものと色違いの服だ。財産目録にある実際の上着を元に濃いめの色のドレスを描いたのだろう。


23.          フルートを持つ女 1665叉は1670年頃

フルートを持つ女 1665叉は1670年頃
油彩、板 20×17.8・
ワシントン・ナショナル・ギャラリー ワイドナー・コレクション
(*フェルメールに属する作品ではないかと言われている)
 この作品は1696年のアムステルダムの競売カタログに登場する。3点のトローヘンボスのヤン・マヒー・ファン・ボクステルとリンプドのコレクションから始まる。A.ブレディウスがブリュッセルのJhr.ド・グレツ・コレクションにあるのを見つけ、1906/1907年にデン・ハーグのマウリッツハイスで展示した。その後ワイドナー・コレクションに入り、1942年以降、ギャラリーに収蔵された。
 イヴォンヌ・ヴレンチェスは本作品の帽子の平行の縦縞が実在の丸い帽子には起こり得ない事を指摘している。フェルメールが視覚的効果を優先して現実を修正したのだ。ただ他の部分はとりわけ手の描写はフェルメールにしては粗雑で助手の手によるもの、あるいは作品自体が近年描かれたとする研究者さえいる。また、<赤い帽子の女>と同様カンヴァスではなく板に描かれている。しかし板や使用されている顔料は17世紀のものである事が分かっている。


24.          真珠の耳飾りの少女(青いターバンの少女)」(1665年頃) - マウリッツハイス美術館、ハーグ
青いターバンの女(真珠の耳飾りの少女)1665-1666年頃
油彩 カンヴァス、45×39、9・ 
マウリッツハイス美術館
デン・ハーグ
現在、フェルメールの作品のなかで最も有名なものの一つとされている。この作品が1696年ディシウス・コレクションの競売でついた評価額はわずか36ギルターであった。この作品同様、今も高い評価を受ける<牛乳を注ぐ女>が175ギルターという高値がついたことを比べると驚くべき事だ。更に驚くべきことは、1882年の初め、デン・ハーグのブラ-ム競売でA.A.デ・トンブがわずか2ギルターで購入した。この時絵は非常に汚れが酷かった為、売り手もフェルメールとは思わなかったのだ。その後1903年マウリッツハイスに遺贈された。


25.          絵画芸術(1666-1667) - 美術史美術館ウィーン
絵画芸術 1666-1667年頃、
油彩 カンヴァス、120×100cm
美術史美術館、ウィーン
 16762月フェルメールの未亡人カタリーナは自分の母にやむなく夫の作品<絵画芸術>を渡す事を宣言した。フェルメールはこの作品をその死まで約10年間保有し、彼の死後残された妻は、この絵を夫の形見として保有し続けられるようにあらゆる努力をしたが結局それがかなうことはなかった。そして150年後1813年に絵はデ・ホーホ作としてヨーハン・ルドルフ・ツェルニンにわずか50ギルターで購入される。その後もウィーンのツェルニン家のコレクションにあったが何と第二次世界大戦中にアドルフ・ヒトラーに売られてしまった。第二次世界大戦が終わった1946年、ウィーン美術史美術館に購入された。
 フェルメールの最高傑作とも言われているこの絵は、愚意画である。トロンボーンを持つ可憐な女性は全く枯れた部分のない月桂樹をいだき純潔の青い衣装を纏っている。彼女は歴史の女神クリオを表し画家の名声を吹聴していると考えられる。テーブルの上の石膏型、本、ドローイングなどは芸術家の創造性を表し、壁面の地図とシャンデリアは画家の主題「歴史」を表現している。不思議な事にこの地図ではオランダ独立戦争で分裂したネーデルランドの北部7州と南部諸州が分裂する前の姿で描かれている。シャンデリアの上に見られる2羽のワシは分裂前のネーデルランドを支配していたハプスブルク王朝を象徴している。カトリックとプロテスタント地域を象徴的に分ける、地図中央にあるしわがフェルメールによって意図的に描いたのかそれとも実際に地図上にあったものかは想像するしかない。
 絵の中の画家は<取り持ち女>の左側の男性と非常に良く似た服を着ている。この事から彼もまたフェルメールの自画像ではないかと考えられている

26.          少女
少女 1666-1667年頃、
油彩 カンヴァス、44.5×40cm
メトロポリタン美術館、ニューヨーク
チャールズ・ライツマン夫妻よりセオドール・ルソーJr.を記念して寄贈(1979年)
 この作品は、アムステルダムの16965月の競売で出された三つのトローニーのどれかに該当すると思われる。しかし1829年にブリュッセルのアレンブルク公アウグスト・コレクションで確認されたのが最初の正式な記録である。その後、ニューヨーク/パーム・ビーチのチャールズ・B.ライツマンコレクションに入り、彼が1979年メトロポリタン美術館に寄贈した。
 この絵は、特定の人物の肖像画それともフェルメールの娘で誰かではないかと考えられている。もしそうだとすれば、制作年代から推測して絵の少女は長女マーリアと言う事になる。ただ作品の制作当時、長女マーリアでさえ12歳か13歳に満たずこの絵のモデルとしては若すぎるだろう。

27.          「女と召使」(1667) - フリック・コレクション、ニューヨーク
婦人と召使い 1667年頃
油彩 カンヴァス、90.2×78.7cm
フリック・コレクション、 ニューヨーク
 本作品の来歴は、絵の内容から<恋文>と多少混同している時がある。ディシウス・コレクションを経て、16965月アムステルダムの競売にかけられた。1837年のパリ、エリーゼ宮アンセンヌ・ガリュリの競売では「二人の人物は不思議な照明の室内を背景にくっきりとした姿を表す。その伸びやかで特徴のあふ画風はテル・ボルフの優品を思い起こさせる」と言われた。ロンドンの画廊デュヴェーンから1919年にH.C.フリック・コレクションに入った。
 絵の中で上着を着た美しい女性は30代半ばくらいに見える。白い毛皮の縁取りがついた黄色い上着はフェルメールの妻のものと似ている。絵が作成された1666年頃彼女は35歳前後だったことから絵の中の女性がフェルメールの妻カタリーナ・ボルネスではないかと推測する研究者もいる。

28.          天文学者 1668
天文学者 1668
油彩 カンヴァス、50×45cm
ルーブル美術館、パリ
第二次世界大戦中、ヒトラーは略奪品からなるコレクションを収蔵する巨大な「美術館」を作る計画をたてた。彼の命令で軍によって略奪された多くの美術品がドイツのリンツへ運びこまれた。その中の一枚がこの<天文学者>である。1945年、ドイツの敗戦と共に、絵は本来の所有者に返還された。このロスチャイルド・コレクションから1983年ルーブル美術館が手に入れた。
 元々この作品は対になる<地理学者>と共に18世紀中多くの競売にかけられた。初めて独立して売りに出されたのは1778年のアムステルダムの競売である。
 天文学者の前にある本はアードリエーン・メティウスの『天文・地理学 集成天球儀と地球儀を利用した天文術基礎研究及び地理記述』第3版であることが分るくらい正確に描写されている。部屋の奥には<モーゼの発見>の小さな絵があるが、モーゼは17世紀「最初の地理学者」と称されていた。この事からフェルメールはこの主題で天文学者の学問を暗示しようとしたのだろう。また天球儀はホンディウスが製作したもので、同じものが1点だけ現存している。


29.          「レースを編む女」(1669-1670) - ルーブル美術館パリ
レースを編む女 1669-1670年頃
油彩 カンヴァス、板で裏打ち 23.9×20,5cm
ルーブル美術館、パリ
 レース編みに没頭する女性を描いたこの絵の記録が最初に確認されたのは1682年デルフトのディシウス・コレクションである。16965月アムステルダムの競売売却された時、この絵の評価額はわずか28ギルターだった。レース編みをする女性は当時よく描かれた題材だったが、画面いっぱいに女性の上半身が描かれるこの構図は珍しい。フェルメールはこうしてレースを編む女の集中力を強調し、鑑賞者を画中に引き込んでいるのだ。18174月のパリの競売では「見事な出来映えの作品。画家はゆったりとした画風で自然な仕上がり、材質の相違、布の柔らかさを的確と効果を用いて表現する術を知っていた」と賞賛されている。
 この絵は1870年ルーブル美術館のコレクションに入ったがその直前、同じパリの競売でブロックハイゼン・コレクションの一部として売られていた。皮肉な事に、ロッテルダムのブロックハイゼンのコレクションは初め比較的割安な価格でそっくりロッテルダム市に提供されたが、ロッテルダムは市はこの申し出を拒んだ。その結果<レースを編む女>はルーブル美術館に落ち着くことになったのである。

30.          恋文 1669-1670年頃
恋文 1669-1670年頃
油彩、カンバス、44×38cm
アムステルダム国立美術館
 はっきりと絵の存在が確認されたのはピーテル・ファン・レネップとその妻マルハレータ・コルネーリア・コップスのコレクションで1850年に結婚した彼等の娘がこの絵を相続した。作品は1892年にレイブラント財団に売られ、1893アムステルダム国立美術館に引き渡された。
 壁の奥に見える海景図はフェルメールの未亡人の財産目録にある<海景図小品>の可能性がある。また左側には<兵士と笑う女>や<青衣の女>に描かれているのと同じ地図が部分的に見えている


31.          「地理学者」(1669) - シュテーデル美術館フランクフルト
地理学者 1668-1669年頃
油彩 カンヴァス、51.6×45.4cm
シュテーデル美術研究所 フランクフルト
 この絵は数回にわたって<天文学者>と一緒に売却され、1778年までほぼ同じような来歴をたどっていた。はじめて単独で売られたのは17978sでアムステルダムのヤン・ダンセル・ニーマンの競売である。最終的には18854月ウィーンの競売でシュテーデル美術研究所が9000シリングで購入した。絵に描かれた地球儀はホンディウスが製作したもので、<天文学者>の中に出て来る天球儀と対で売られたものである。



32.          「手紙を書く女と召使」(1670) - アイルランド国立美術館
手紙を書く婦人と召使い 1670年頃
油彩、カンバス、71.1×60.5cm
アイルランド・ナショナル・ギャラリー
ダブリン
 フェルメールの未亡人は16761月フェルメールの未亡人カタリーナは617ギルターの借金の質としてパン屋ファン・バイテンに引き渡したがそのうちの一つがこの作品である。最終的にこの作品はロンドンのA.ベイト・コレクションからブレシントン(アイルランド)のベイト・コレクションに売却され、同コレクションは1676年に財団となって今に至っている。
 背後の壁にある絵画は<天文学者>と同じ<モーゼの発見>である。




33.          ギターを牽く女 1670年頃
ギターを牽く女 1670年頃
油彩、カンバス、53×46.3cm
ケンウッドハウス
アイヴァー遺贈コレクション財団
 16761月フェルメールの未亡人カタリーナは617ギルターの借金の質としてパン屋ファン・バイテンは亡き夫の2枚の絵を譲り渡した。その時の記録に<シターンを弾く人物>書かれた絵がこの作品である。1696年にアムステルダムの競売にかけられた後、1794以降イギリスにあり1889年アイヴァ-伯爵が購入して現在アイヴァー遺贈コレクションとしてケンウッドハウスに所蔵されている。
 この絵画の推定制作年代から考えると当時フェルメールの長女マーリアは17,18歳くらいで彼女が絵のモデルになったかもしれない。フィラデルフィア美術館に17世紀か18世紀初頭に描かれた複製が残っているが複製のほうは少女の髪型が少し違っている。




34.          信仰の愚意 1671-1674年頃
信仰の愚意 1671-1674年頃
油彩、カンバス、114.3×88.9cm
メトロポリタン美術館、ニューヨーク、
フリートサム・コレクション、ミカエル・フリートサムより遺贈(1931年)

 1699年、アムステルダムのヘルマン・ファン・スォル競売で「女性座像と多くの象徴物。新約聖書を図像化したもの」と書かれているのがこの<信仰と寓意>である。1718年の競売では500ギルターという高い評価がついていたが、その後1735年には53ギルターまで値段が下がった。信仰を表す人物のポーズが余りに芝居じみているので大衆受けしないのだと言う研究者もいる。後ろの壁にある絵はおそらくフェルメールの未亡人が1676年に自宅に持っていた<十字架情のキリスト大作>だろう。また右の金皮革とテーブルの上の黒壇製十字架も財産目録の中に出てくる。少し模様が違うけれど同じ金皮革が<恋文>にも描かれている。作品はベルリンの画商ベヒトラーが所蔵していた時にC.ネッチェルの偽署名があったが、最終的には1928年にニューヨークのM.フリートサム・コレクションに入り、1931年フリートサム氏からメトロポリタン美術館に遺贈された。

35.          「ヴァージナルの前に立つ女」(1673-1675) - ナショナルギャラリー、ロンドン
ヴァージナルの前に立つ女 1672-1673年頃
油彩、カンバス、 51.8×45.2cm
ロンドン・ナショナル・ギャラリー
1682年にアントウェルペンのディエゴ・デュアルトが所蔵していた作品がこの<ヴァージナルの前に立つ女>か、あるいは<ヴァージナルの前に座る女>らしい。その後流転を経て、1866年頃にはフェルメールを再発見したトレ=ビュルガーのコレクションにあった。1892年パリのトレ=ビュルガー競売で29000フランでロンドンの画商が購入。同じ月にロンドンのナショナル・ギャラリーが買った。
 置くの壁の大きな絵は<中断された音楽の稽古>、<眠る女>そして<窓辺で手紙を読む女>のX写真などに見られる、チェーザレ・ファン・エーフェルディンゲンの作品であるのは間違いない。この絵は、フェルメールの死後、財産目録の中に出てくる<キューピット>である。またこの<ヴァージナルの前に座る女>と<ヴァージナルの前に立つ女>を、対の作品であると指摘する研究者もいる。

36.          「ヴァージナルの前に座る女」(1673-1675) - ナショナル・ギャラリー、ロンドン
ヴァージナルの前に座る女 1675年頃
油彩、カンバス、 51.5×45.6cm
ロンドン・ナショナル・ギャラリー
 <ヴァージナルの前に立つ女>と同じく1682年にアントウェルペンのディエゴ・デュアルトの所蔵リストにある作品がこの絵ではないかと考えられている。その後1866年に作品を手に入れたビュルガーがこれをヤン・フェルメール作として言及した。幾つかの流転を経て、1900年にジョージ・サルディング・コレクションに入り、同氏からロンドンのナショナル・ギャラリーへ遺贈された。
 構図全体は、ダリッヂにあるヘラルト・ダウの<クラヴィコードを弾く女>から着想されたもののようだ。背景にある金箔の額縁に入った絵は、バルレーンの<取り持ち女>である。<合奏>では同じ絵が黒い額縁の入っている。この画中画がヴァージナルの前に座る着飾った婦人に対する戒めの意味で描かれたのかどうかは推測するしかない。

「忘れられた画家」と再発見 [編集]
聖ルカ組合の理事に選出されていたことからも明らかなように、生前は画家として高い評価を得ていた。死後20年以上たった1696の競売でも彼の作品は高値が付けられている。しかしながら、18世紀に入った途端、フェルメールの名は急速に忘れられていった。この理由として、あまりに寡作だったこと、それらが個人コレクションだったため公開されていなかったこと、芸術アカデミーの影響でその画風や主だった主題が軽視されていたことが挙げられる。しかし18世紀においても「全く」忘れられていたわけではなく、ジョシュア・レノルズなどはオランダを旅した際の報告において、彼について言及している。

19
世紀のフランスにおいて、ついに再び脚光を浴びることとなる。それまでのフランス画壇においては、絵画は理想的に描くもの、非日常的なものという考えが支配的であったが、それらの考えに反旗を翻し、民衆の日常生活を理想化せずに描くギュスターヴ・クールベジャン=フランソワ・ミレーが現れたのである。この新しい絵画の潮流が後の印象派誕生へつながることとなった。このような時代背景の中で、写実主義を基本とした17世紀オランダ絵画が人気を獲得し、フェルメールが再び高い評価と人気を勝ち得ることとなったのである。
1866にフランス人研究家トレ・ビュルガーが美術雑誌「ガゼット・デ・ボザール」に著した論文が、フェルメールに関する初の本格的なモノグラフである。当時フェルメールに関する文献資料は少なく、トレ・ビュルガーは自らをフェルメールの「発見者」として位置付けた。しかし、実際にはフェルメールの評価は生前から高く、完全に「忘れられた画家」だったわけではない。トレは研究者であっただけでなくコレクターで画商であったため、フェルメール「再発見」のシナリオによって利益を得ようとしたのではないかという研究者もいる。
その後、マルセル・プルーストポール・クローデルといった文学者などから高い評価を得た。
フェルメールのモチーフはこれまで検討されていないが、当時出島からオランダにもたらされ、評判を呼んだ日本の着物と見える衣裳の人物像が5点ほど見える。オランダ絵画の黄金時代を花開かせた商人の経済力には、当時、世界的に注目を受けていた見銀山で産出したが、出島からオランダにもたらされ莫大な利益を生んでいたことも関係している。
贋作事件 [編集]
トレ・ビュルガーがフェルメールの作品として認定した絵画は70点以上にのぼる。これらの作品の多くは、その後の研究によって別人の作であることが明らかになり、次々と作品リストから取り除かれていった。20世紀に入ると、このような動きと逆行するようにフェルメールの贋作が現れてくる。中でも最大のスキャンダルといわれるのがハン・ファン・メーヘレンによる一連の贋作事件である。
この事件は1945ナチス・ドイツの国家元帥ヘルマン・ゲーリングの妻の居城からフェルメールの贋作『キリストと悔恨の女』が押収されたことに端を発する。売却経路の追及によって、メーヘレンが逮捕された。オランダの至宝を敵国に売り渡した売国奴としてである。ところが、メーヘレンはこの作品は自らが描いた贋作であると告白したのである。さらに多数のフェルメールの贋作を世に送り出しており、その中には『エマオのキリスト』も含まれているというのである。『エマオのキリスト』は1938ロッテルダムボイマンス美術館が購入したものであり、購入額の54ギルダーはオランダ絵画としては過去最高額であった。当初メーヘレンの告白が受け入れられなかったため、彼は法廷で衆人環視の中、贋作を作ってみせたという。『エマオのキリスト』は、現在でもボイマンス美術館の一画に展示されている。
フェルメールとダリ [編集]
シュルレアリストとして有名な画家サルバドール・ダリは、フェルメールを絶賛しており、自ら『テーブルとして使われるフェルメールの亡霊』(1934,ダリ美術館)、『フェルメールの「レースを編む女」に関する偏執狂的=批判的習作』(1955,グッゲンハイム美術館)など、フェルメールをモチーフにした作品を描いている。
ダリは著書の中で、歴史的芸術家達を技術、構成など項目別に採点しており、ダヴィンチピカソなど名だたる天才の中でもフェルメールに最高点をつけている。ちなみに独創性において1点減点する以外はすべて満点をつけた。
盗難 [編集]
『恋文』
1971アムステルダム国立美術館所蔵の『恋文』が、ブリュッセルで行われた展覧会への貸し出し中に盗難に遭った。程なく犯人は逮捕されたが、盗難の際に木枠からカンバスナイフで切り出し、丸めて持ち歩いたため、周辺部の絵具が剥離してしまい、作品は深刻なダメージを蒙った。
1974223、『ギターを弾く女』がロンドンの美術館であるケンウッド・ハウスから盗まれている。この作品と引き換えに、無期懲役刑に処せられているIRA暫定派テロリス、プライス姉妹をロンドンの刑務所から北アイルランドの刑務所に移送せよとの要求が犯人から突きつけられた。
さらに5週間後の426には、ダブリン郊外の私邸ラスボロー・ハウスからフェルメールの『手紙を書く女と召使』を始めとした19点の絵画が盗まれた。こちらの犯人からは、同じくプライス姉妹の北アイルランド移送と、50ポンドの身代金の要求があった。
イギリス政府はいずれの要求にも屈せず、テロには譲歩しないという態度を堅持し続けた。翌19751月、別件で逮捕されたIRAメンバーの宿泊先からケンウッド・ハウスから盗まれた絵画が無事保護された。さらにその翌々日、スコットランド・ヤードに対し、「恋文」はロンドン市内の墓地に置かれているという匿名の電話があり、「恋文」も無事保護された。
ラスボロー・ハウスの『手紙を書く女と召使』は1986にも盗まれたが、7年後の1993に、囮捜査によって犯人グループが逮捕され、作品はとりもどされている。
1990318の深夜1時過ぎ、ボストンイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館にボストン市警を名乗る2人組が現れて美術館警備員を拘束し、フェルメールの『合奏』を始め、レンブラントの『ガリラヤの海の嵐』、ドガマネの作品など計13点を強奪の上、逃走した。被害総額は当時の価値で2億ドルとも3億ドルともいわれ、史上最大の美術品盗難事件となってしまった。これらの絵画は依然として発見されていない(20075月現在)。

フェルメール盗難事件簿
~フェルメールはなぜ盗まれるか~
 ちょっとシリアスな内容であるが、この国宝級の絵画は幾度か盗難にあっている。今までの経路をまとめてみた。
 N.Yにある、メトロポリタン美術館、ロンドンナショナルギャラリーで開催された、フェルメールの展覧会、『フェルメールとデルフト派』展があった年の2001年の夏、実はあるフェルメールの作品の盗難未遂事件が起きたのは、以外と知らない人は多い。
 それはアイルランド、ダブリンで起こった。アイルランド、ナショナルギャラリーが盗難の警告を受けた。盗みのターゲットになると警察から連絡が来たのは、まさしくフェルメールの<手紙を書く女と召し使い>であった。この作品は、以前ラスボロ-・ハウス(*1)の過去2度の盗難事件で被害になっている。そしてその後90 年代半ばにナショナルギャラリーに寄贈されている。
 とろこがそのラスボロ-・ハウスに白昼、武装した3人組が正面扉に車で体当たりして侵入し、2枚の絵画を盗みだした。警報装置による知らせを受けた警察が駆け付けた頃にはすでに犯人は車で逃走した後だった。ラスボロ-・ハウスは今までに2度も盗難事件が起こり、フェルメールやゴヤなどの絵が盗まれており、3度目でも警察は面目を食らうはめとなった。
<手紙を書く女と召使い>の盗難経歴


もし<手紙を書く女と召使い>がラスボロ-・ハウスにあったならばまさしく3度盗まれたかもしれない。今回の盗難未遂事件も含め、アイルランドでの盗難事件を見ると面白いことが分かる。犯人は別々の人物であり、動機もバラバラだが、3つの事件には共通点が見られる。
 それはIRAである。IRAについて御存じの方も多いと思うが、IRAとは、北アイルランドの英国からの独立を主張するテロリスト集団である。そのIRAとフェルメールと関係がないように思われるが、そのミスマッチが絵画盗難の動機に関連している。そのIRAの関与は、絵画盗難事件がこれまでになかった新たな時代にはいりつつある事を示している。
 美術盗難事件は、欧米では日常茶飯事ともいえるほど幾度も起こっているが、被害を受ける大半の絵画はそれほど有名な作品ではない。こういった盗難品は、蚤の市や小規模なオークションなど目立たない所で本来の価値に及ばないほどに安い値で売りさばかれる。犯人も空き巣専門のこそ泥が大部分である。それ以外には、個人で所有することを目的とした盗み、あるいは所有者、保険業者からの買い戻しを目的とした窃盗事件も起こっている。
 一方世の中では、私たちの想像を超えた動機を持つ美術品盗難事件が起こっていることも事実であり、フェルメール盗難事件にはそれが見て取れる。
 アイルランド、ナショナルギャラリーにある<手紙を書く女と召し使い>は日本に来た事はまだないが、世界でわずか36点(疑惑作品も含む)残っている作品の中の1点として計りしれない価値を持っている。評価額は想像するのは難しいが、200億~300億と言われている。この作品が過去に2度盗難にあっている事はなかなか信じられないが、さらに驚くのは他の作品も幾度の盗まれる事件が起こっていたという事実である。アイルランドの2件の盗難事件を含めて5件起きている。現存する作品の数からして、被害にあった頻度は多い。そらにこの5件中、3件が政治的動機を持った犯人による盗みであった点も特筆である。
 政治動機を持つ事件でフェルメールが標的にされるのはまさしく稀少価値が高いからであろう。数が少なく、貴重であるほうが、交渉材料としては有利だと犯人は判断したからだと思う。

過去の盗難経歴
 まず5件のとう難事件を年代順にたどってみよう。
1: 1971年、ベルギー、ブリュッセルで行われていた展覧会場から、<恋文>(アムステルダム国立美術館所蔵)が盗まれた事件
 これは額縁からナイフで切り取られ、大きな損傷を受けた。
犯行の数日後に犯人から新聞社に脅迫電話がかかってきた。その内容は、「当時東西パキスタンで起こった内戦(内戦の結果、東パキスタンはバングラデシュ人民共和国として独立)によってインドに流出した約700万人の東パキスタン難民に対し、オランダとベルギー政府が義損金として2億ベルギーフラン(約400万ドル)を送り、両国の美術館が国際的な反飢餓キャンペーンを打てば絵は返す」という内容だった。
 その後、犯人である若いベルギー人がすぐに逮捕され、絵も発見されたが、<恋文>は額から切り取られ、それから内側に丸まれてそれをズボンに隠して逃走し、犯人が泊まっていたホテルのベットの枕の下から発見された。しかし、一部分の顔料が剥がれ落ちるなど、大きな損傷を受け、修復はほぼ1年近くかかった。
修復を通じて、フェルメールの絵の秘密が解き明かされる
2: 19742月、ロンドン、ケンウッドハウスから<ギターを弾く女>が盗まれた事件
 この事件は、3度目に起こった事件と、動機が共通している。
 その動機というのは、ロンドンの刑務所でハンガーストライキを行っていたIRAの自動車爆破犯人を北アイルランドの刑務所に移送せよという要求をイギリス政府に突き付ける事が目的であった。送られた脅迫状には、もし、要求に従わなければ、絵を爆破すると書かれていた。
ダブリンで盗難された絵<手紙を書く女と召使い>が発見された後、ロンドン市内の墓地に置き去りにされた状態で発見される。犯人はまだ分かっていないが、IRAのシンパだろうと考えられる。
3: 1974年4月、アイルランド郊外にあるラスボロ-・ハウスから<手紙を書く女と召使い>含む18点の絵が盗まれた事件
 ロンドンで起こった事件と動機は共通。
 事件が起こった1週間後にアイルランド南部でイギリスの女性IRA活動家が逮捕され、絵も発見された。
4: 1986年5月再びラスボロ-・ハウスから<手紙を書く女と召使い>含む11点が再度盗まれた事件
 5月21日午前2時頃、ラスボロ-・ハウスの警報装置が鳴り、駆け付けた警察が調べたところ、侵入者の形跡はなく、誤作動ということになったが、再セットしてもスイッチが入らなかった。これこそ犯人の作戦であった。警官が帰った後、彼らは邸内に再度侵入し、フェルメールの絵を含む11点でほとんどが74年に盗まれた絵だった。被害推定額が3千万ドルから4千5百ドルと報道した。
 事件直後は、メディアではIRAの犯行ではないかと騒がしたが、アイルランド国家警察では、かなり早い時点で犯人はダブリンの悪名高き犯罪者マ-ティン・カ-ヒル(*2)であるという情報を得ており、犯行に加わっていた11人の顔ぶれも大体分かっていた。カ-ヒルが盗みを行った動機は2つあり、一つは、闇市場で絵を転売そ金を手に入れること、もう一つは、世間を騒がせて警察や政府に恥をかかせることである。しかし、彼には計算違いがあった。前回の強盗事件もあり、転売相手も見つけるのは容易な事ではなく、カ-ヒルはヨーロッパ中の様々な犯罪者や組織に接触するハメとなる。そしてIRAに接触するが、IRA はカ-ヒルを信用しなかった。その後カ-ヒルは1990年、IRAの宿敵であるプロテスタント系テロリスト「アルスタ-義勇軍」に声をかけ、絵を渡した。カ-ヒルは盗んだ別の絵を持ってイスタンブールに買い手を探しに行くが、囮捜査にまんまとひっかかり逮捕される。
 これで彼は英国帰属派のテロリストと取り引きする不遜(ふそん)な男として烙印(らくいん)を押された。この事がどれほどIRA を怒らせたか、カ-ヒルは4年後自らの墓穴を掘ることとなる。カ-ヒルが車で自宅から出た所を銃を持った男に襲われ、処刑とも言える残忍な方法で惨殺される。後にIRAから犯行声明文が出された。
5. 1990年 ボストンのイザべラ・ガードナー美術館
『合奏』やレンブラント他全13点の盗難、時価300億円と言われる
いまだに不明












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