さいごの色街  井上理津子  2012.5.1.

2012.5.1. さいごの色街 飛田

著者  井上理津子 1955年生まれ。フリーライター。大阪を拠点に人物インタビューやルポを中心に活動を続けてきた。特に、生活者の視点を踏まえた文章が多い。本書は足掛け12年におよぶ取材を基にしている。最近は東京に拠点を移し、葬送をテーマに取材に取り組んでいる。著書に『産婆さん、50年やりました』他

発行日           2011.10.25. 初版第1刷発行         12.25. 初版第5刷発行
発行所           筑摩書房

大阪市西成区。約160軒。100年も前にタイムスリップしたような町の光景
「鯛よし百番」という遊郭建築をそのまま使った料理屋
とんでもない街
売春禁止法が出来たことも、「人権」なるものが世に存在することも知らないような町
東京に転居した友人から、「東京広しと言えどもああいう町はどこにもない。そのうちなくなってしまいそうだから、記録しといたら」と言われたのが取材のきっかけ
飛田経験者からのインタビューで概要を掴む ⇒ 2015千円、3021千円(2001年当時)。怖い目にあったことや外国人もなし
1958年までは合法
老人ホームのマイクロバスが停まり、数人の高齢者が出てきて料亭の中に入っていったのには驚いた

1912年 「南の大火」で焼失した遊郭・難波新地乙部の代替地として設置 ⇒ 大阪府が、難波の再興許可を「芸娼妓解放令」(1872年発布、マリア・ルーズ号事件で逃亡中国人を日本政府が人道上の問題として保護したことが契機で発令したもの)のため却下、別に飛田を遊郭と指定 ⇒ 市議会議員の利権が絡んで22千坪の土地が払い下げられ、4年後に開業
当時、700mほど北の新世界では、03年の第5回内国勧業博覧会の跡地に通天閣やルナパークが設けられ、パリをモデルに区画し歓楽街の歴史を刻み始めていたが、飛田は江戸時代に大坂の市街地整理の一環で辺鄙な地に設けられて「大坂7墓」の1つ、飛田墓地の東南端に位置して、空き地のまま放置されていた土地を、阪南土地建物という会社を興してタダ同然で買収・開発し、楼主に建物を賃貸したもので、成り立ちの経緯からしてグレー
大阪には、江戸時代から連綿と続く南地五花街(宗右衛門町、横町、阪町、九郎右衛門町、難波新地の総称)、新町、北堀江、曽根崎新地と、大阪港開港後の「外人対策」を主目的に1869年新設された松島遊郭(現西区)の色街があり、芸者を中心とする「甲部」と、娼妓中心の「乙部」があり、飛田遊郭は近代大阪における松島に次ぐ2つ目の遊郭新設だった
「乙部」は、松島と新町の一部、焼けた難波新地乙部が該当
キリスト教者たちを中心に激しい反対運動が起こり、許認可権者の府知事(大久保利通の三男・利武)に迫ったが、結局許可が下りる ⇒ 反対派は、敗因を婦人に政治力がなかったこととし、婦人参政権獲得運動に転換、同運動の端緒となった
1918年 飛田開業 ⇒ 貸座敷21戸、娼妓21人しか許可が下りず、その後急激に拡大
営業形態は「居稼」(てらし) ⇒ 妓楼に自分の部屋を与えられて、そこで客を取る
飛田の特徴 ⇒ セックス専門、芸者はほとんどいない
遊客1人の消費額427銭=米14.6㎏分、タクシー初乗り4回分
阿部定(1905~没年不詳、事件を起こしたのは1936))も、全国を転々とした間に27年から1年余り飛田で働き、「面白く働いた」と述懐
1937年 飛田会館完成 ⇒ 楼主が組成した飛田遊郭組合が建てたもの、豪華3階建て
1958年の売春防止法施行を前に転廃業が進む ⇒ 全国で39千の売春業者、120千人の売春婦が廃業
飛田を縄張りにしてきたのは、当時西成一円に強大な勢力を持っていた暴力団鬼頭組で100人以上のポン引きがその傘下にいた ⇒ 九州・中津の愚連隊で後に柳川組を組織する仲間が殴り込んで鬼頭組を瓦解させ、山口組の傘下に入って全国制覇の先兵となる
売防法完全施行の直前に府警による一斉取り締まり ⇒ 仕切ったのが当時27歳の府警の警部補・四方修(84年のグリコ事件の府警本部長)
飛田の変身 ⇒ 「三業分離」 待合、カフェー、下宿の三業に分かれ、表面上は売春をしていないポーズをとる。下宿屋に下宿する女給がカフェーに出勤して働き、客と自ら契約して待合を利用し、業者は貸席料を取り、下宿代名義で遊興代の配分を受ける仕組み
1960年 飛田近くに住む黒岩重吾(192403)が旧満州から復員後釜ヶ崎のドヤ街でトランプ占いをしながら糊口を凌いでいたころ、飛田の断面を切り取った短編小説を書いた
1961年 釜ヶ崎暴動 ⇒ 日雇い労働者がタクシーにはねられたが、救急車の到着が遅れたため亡くなったことを、日雇いを粗末に扱ったとして付近の日雇いが暴徒化し警官を襲う ⇒ 医療費を自治体が負担するなどして労働者の不満を緩和しようとしたが、暴動は何度も続く。66年に愛隣地区と改称したのも、ダーティーなイメージを是正するため

飛田で働く人たちの個人的な背景を取材するためにビラを配る ⇒ 4人が応じてきた

あとがき
新手の斡旋屋の出現で、利益配分に変化 ⇒ 経営者45、女の子54、おばちゃん1の経営者取り分が斡旋屋にマージンとして取られるため、斡旋屋に食い潰されている。新たなグレー層の出現で、いっそう取り締りが難しくなっている
多くの「女の子」「おばちゃん」は、他の職業を選択することができないために、飛田で働いている。それは連鎖する貧困に抗えないから。抗うためのベースとなる家庭教育、学校教育、社会教育が欠落した中に育たざるを得なかった

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